第55話「雪の入口――2.26の“失敗”が京香の身体に触れる」
翌朝、学校は何事もなかった顔をしていた。
何事もなかった顔が、一番怖い。
統治は“事件を事件にしない”ことで強くなる。
京香は小テストの返却を受けた。
点は悪くない。
それが救いだ。
受験が象徴負けしていない。
まだ、同列の戦争だ。
廊下で愛美が小声で言った。
「……昨日、家の前に変な人いたって噂、聞いた」
噂。
世間が侵食されている。
榊原の速さが、校外に根を張った。
そして体育館。
また集会。
理由は「安全」。
安全は統治の合言葉。
壇上に立つのは、四天王ではない。
僧衣の影。
影は薄いのに、存在が重い。
天海。
直接は名乗らない。
名乗らないほうが、神になる。
声は優しい。
優しさが、命令へ変わる予感を孕む。
「若者よ。迷うな。
迷いは不安を生む。
不安は争いを生む」
京香の背筋が冷える。
迷いを否定する思想。
京香の核の否定。
天海の声が続く。
「だから、従え」
その一語で、体育館の目が薄くなる。
全員の目が“正しい側”へ寄る。
寄るほど、京香が異物になる。
ユッキーが、胸の奥で苦しそうに息をした。
(……この声は。俺が知っている。
だが、確信できない。
天海は――史実の余白にいる)
史実の余白。
天海だけは“史実と一致しない余白”を残す。
その恐怖が、今は声の質として現れる。
京香の視界が白く滲んだ。
雪の匂い。
2.26の雪。
体育館の床が、一瞬だけ“雪の野”に見える。
軍靴の足音。
拍手が足音に変わる。
月香の感覚が流れ込む。
――ここは入口。
――2.26の失敗は、記憶ではない。
――失敗は“身体”に触れる。
――京香、お前の体温が落ちるほど、入口は開く。
京香は震えた。
魂が冷える。
不可逆の道が、足元に伸びる。
天海の声が、さらに優しくなる。
「和久京香。君は優しい。
優しい者は、統治に必要だ」
必要だ。
役目だ。
個人が消える言葉。
その瞬間、体育館の後方で、誰かが刃物を出す音がした。
カチ。
白い刃の署名。
今度は一人じゃない。
二人。三人。
“正しい側”に立つ顔をした器が、同時に動く。
忠勝の予告。守る対象を増やす。
数で殺す。
京香の心臓が跳ねる。
でも、逃げない。
逃げれば、将来が死ぬ。
受験も日常も、ここで壊れる。
(ユッキー、貸して。……でも奪わないで)
(承知)
京香は体育館の器具庫から、モップを引いた。
モップは槍ではない。
しかし柄は“線”を引ける。
一人目が突っ込む。カッター。
京香は柄を床に滑らせ、相手の足の進路を塞ぐ。
転ばせない。止める。
止める角度で、相手の勢いを殺す。
二人目が横から来る。コンパス。
京香はモップの先の布を相手の手に絡め、刃の軌道を“濡れ布”で鈍らせる。
刃は布に弱い。日常の知恵。
三人目が背後から。
京香は振り向かない。
振り向いた瞬間、正面が刺される。
ユッキーの教えが息をしている。
京香は、床に“六つの円”を描くようにモップを回した。
六文銭の形。
輪が、境界線になる。
「近づかないで!」
その声で、何人かの目が一瞬戻った。
戻る。
戻る瞬間は短い。
その短さに、京香は賭ける。
「刃を落として。大丈夫。
あなたはあなた。怖いだけ」
怖いだけ。
怖いを言っていい。
その言葉が“侵食に抗う呪文”になる。
だが――天海の声が重なる。
「従え。あなたのためだ」
“あなたのため”が体育館を満たす。
優しい刃が、数で押し潰す。
京香の指先が遅れる。
体温が落ちる。
視界が白くなる。
雪が、足元まで来る。
(……京香)
月香の声ではない。
感覚だ。
消えたいはずの月香が、介入しない介入で“支え”だけを残す。
――嘘をつくな。
――怖いと言え。
――兆候を記録しろ。
――そして、選べ。
京香は、胸の奥で泣きそうになりながら言った。
(怖い。ユッキー、怖い)
(怖いと言えた。だからまだ戻れる。
京香、目を閉じるな。閉じたら雪に連れていかれる)
雪に連れていかれる。
それは月香の道。不可逆。
京香は歯を食いしばり、最後の力でモップを床に突き立てた。
突き立てるのは攻撃じゃない。
境界線の杭。
その一秒、刃の数が止まった。
止まる。
止まることが勝利。
遠くでサイレンが鳴った。
誰かが通報した。
愛美かもしれない。
日常の側が、まだ生きている。
天海の影が、ふっと薄くなる。
薄くなりながら、優しく言う。
「……よく迷う。
だが迷いは、いずれ疲弊になる。
疲弊は、従順になる」
疲弊。
魂の冷え。
代償の正体。
体育館の床が元に戻った。
雪は降っていない。
でも、京香の指先は確実に冷たい。
京香は、震える手で英単語帳を握った。
それが、今日の“武器”だった。
“persist”。
続ける。
受験も、戦争も、続ける。
胸の奥でユッキーが、静かに言った。
(……次は、もっと大きい。
学校の外へ、完全に出る)
京香は小さく頷いた。
怖い。
でも、怖いと言える。
怖いと言える自分を、守る。




