第54話「酒井の切り捨て――“救命の証拠”が消される夜」
夜。京香は家で志望理由書を書いていた。
削られた推薦枠は戻らない。
なら、自分で作るしかない。
「なぜ看護師になりたいのか」
母の夜勤。
倒れる夜。
仕事が終わらない世界。
その現実が、京香の核だった。
書き進めようとした瞬間、スマホが震えた。
映像。
保健室の切り取り。
“暴力”に見える角度。
“危険人物”に見える編集。
そして、次の通知。
『証拠動画は削除されました』
削除。
酒井の仕事だ。
合理の切り捨て。
証拠を消すのは、思想の戦争で最も効く。
ユッキーが低く言った。
(酒井は“恨み”を生む。
切り捨てで守った秩序は、必ず内側から腐る)
腐る。
腐った場所に、悪霊は棲む。
窓の外で拍手がした気がした。
誰も拍手していないのに。
拍手は正しさの音。
正しさは命令の前触れ。
京香は息を止めた。
雪の匂いがする。
雪が降る前の匂い。
机の引き出しの白い便箋が、勝手に“カサ”と鳴った。
触れていないのに。
触れないのに、来る。
月香の残像が、介入しない介入を始める。
京香の視界が白く滲んだ。
夢ではない。現実に霧が侵入する。
便箋の余白に、文字ではなく“意味”が流れ込む。
――証拠は消える。
――消えるから、残す方法を変えろ。
――紙は燃える。人は忘れる。
――だが“身体”は覚える。
――技として残せ。
技として残せ。
つまり、京香が“止め方”を磨けということ。
その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
夜のチャイムは嫌な予感しかしない。
インターホンの画面に、スーツの男。
SHINTOUの者。
笑顔。優しい声。
「和久さん。お話を。あなたのためです」
あなたのため。
優しい刃。
京香はドアを開けない。
でも逃げない。
逃げれば、追われる。
チェーンをかけたまま、言う。
「要件は」
「あなたの誤解を解きたい。
動画が消えたのは、あなたのため。炎上を止めたかった」
炎上を止めたかった。
つまり、証拠を消した。
酒井の切り捨てが“善意”の顔で運ばれる。
京香は、スマホの録音を回した。
言葉の暴力には、言葉で抗う。
証拠を“形”で残す。
そのとき、ドアの向こうの男の目が薄くなった。
器の目。
そして、音にならない笑いが滲む。
西尾の署名。
「……真田……」
男の声が古くなる。
この距離で、刃が来る。
チェーンがある。
でも、チェーンは安心じゃない。
相手が壊せば終わる。
(ユッキー)
(……来る。だが開けるな。
開けずに止めろ。今までの特訓を使え)
京香は深呼吸し、玄関の横の傘立てを倒した。
ガシャ。
音で近所を起こすためじゃない。
“時間”を作るため。
音は、侵食の速度を一瞬落とす。
男がチェーン越しにカッターを差し込もうとする。
狭い隙間。
現代的な戦い。
日常の延長線。
京香は、玄関マットを引いた。
摩擦。
男の手元が滑る。
カッターの先が壁を掠める。
京香はチェーンを外さないまま、ドアを“押す”。
押して隙間を小さくする。
刃の角度を潰す。
刺さる場所を消す。
男が苛立って笑う。音にならない笑い。
西尾の無念が、刃に乗る。
「……俺は……勝ったのに……誉れを奪われた……」
西尾の断片。
“ボロボロの幸村を倒した”無念が、暴走として滲む。
勝っても救われない勝利。
それが悪霊になる。
京香は、声を落とした。
救急現場の声。
「勝ったのに、救われなかったんですね」
男の動きが一瞬止まった。
“共感”は刃を鈍らせるときがある。
その一瞬で、京香は110番を押した。
最小の操作。最大の防御。
日常を守るための通報。
ユッキーが、胸の奥で言った。
(よくやった。
戦場で守るとは、刃で勝つことじゃない。
“生き残る手順”を選ぶことだ)
京香の目に涙が滲んだ。
涙は弱さじゃない。
生き残る手順を選んだ証拠。
外でサイレンが近づく。
その音が、今日の勝利の音だった。
だが同時に、負けの音でもある。
社会へ漏れた戦争は、もう戻らない。




