第53話「赤い保健室――井伊の“模範”が生贄を選ぶ」
翌日、学校の保健室が“赤く”なっていた。
白いベッド。白いカーテン。
そこに赤い腕章のスタッフが立つ。
「健康管理強化週間につき、保健室を拡張運用します」
保健室が、医療ではなく統治の窓口になる。
ここまで来ると、世界が歪んで見える。
京香は朝の小テストを受けた。
手が冷える。
シャーペンが滑る。
それでも書く。
受験も戦場だ。ここを落としたら象徴負けする。
小テストの直後、担任が言った。
「和久さん、保健室へ。検温」
検温。
それ自体は普通の行為。
普通の行為が統治に変わる瞬間が怖い。
保健室に入ると、井伊直政がいた。
赤の腕章は、もはや看護師の腕章に似せてある。
悪意が丁寧だ。
「君は体温が低い。
低体温は判断を鈍らせる。
だから君は、今は“保護対象”だ」
保護対象。
弱者のラベル。
忠勝の検査が、井伊の制度になる。
井伊は優しく言う。
「保護対象は、従うべきだ」
京香の胸が冷えた。
守るという言葉で、従わせる。
それが“完全統治”への入口。
ベッドの一つに、昨日の未提出者の男子が寝かされていた。
目が薄い。
腕に点滴。
点滴のチューブが、鎖みたいに見える。
京香は言った。
「……この子、同意してますか」
井伊は笑う。
「彼は不安で混乱している。
混乱している者に同意を求めるのは酷だ」
その理屈は、医療倫理を歪めて使っている。
京香の怒りが、喉まで来る。
井伊は続ける。
「だから我々が決める。
秩序は、救いだ」
秩序は救い。
天海の声に繋がる文。
京香は深呼吸し、言う。
「救いは、本人の意思を残して初めて救いです」
井伊の目が細くなる。
赤が狩りの赤になる。
「なら、模範の責任を取れ」
井伊が指を鳴らす。
保健室のカーテンが、音もなく閉まる。
外の世界が遮断される。
白い檻。
その瞬間、ベッドの男子が起き上がった。
点滴の針を自分で抜こうとする。
血が出る。
“献血”の再演。
赤備えの舞台で赤い血。
京香は息を呑んだ。
止血したい。
でも、男子は刃物じゃなく“針”を武器にする。
針は医療の道具。
だから余計に辛い。
(ユッキー……)
(……来る。西尾が混ざっている)
音にならない笑いが、保健室の白に滲む。
西尾の署名。
井伊の制度の中に、別の悪霊が滑り込んでいる。
男子が針を振り回す。
赤腕章のスタッフが近づき、押さえつけようとする。
「待って! 押さえつけたら折れる!」
京香が叫ぶ。
叫ぶしかない。
医療現場では、最悪の止血より“折れた針”のほうが致命的だ。
京香は、カーテンの留め具を外し、チューブの“逃げ道”を作った。
絡まないように。
血が止まる方向に。
救うのは技術だ。感情じゃない。
そして、京香は男子にだけ聞こえる声で言った。
「あなたは悪くない。
いま怖いだけ。怖いって言っていい」
男子の目が一瞬戻る。
その瞬間に、京香はガーゼを投げる。
ガーゼは男子の手を覆い、針の動きを鈍らせる。
赤腕章が押さえつける前に、京香が“止める”。
止めるのは暴力じゃなく、工程。
井伊が静かに言った。
「素晴らしい。
君は本当に適任だ。
だからこそ、我々のものだ」
京香の背筋が凍る。
“もの”。
人がものにされる瞬間。
京香は、井伊を見た。
「私は誰のものでもない。
私は——私の夢のものです」
井伊の笑顔が消える。
赤備えが、誇りではなく“狩り”に変わる。
負け筋の輪郭。
目立つ統率は、いずれ暴走する。
井伊は低く言う。
「なら、君の夢を折る」
その言葉の直後、掲示板のスマホ通知が飛んだ。
『和久京香、保健室で暴力行為』
『患者に触れた』
『危険人物』
切り取り。
榊原の速さ。
校内で起きた救命が、暴力に変換される。
京香は手が震えた。
震えは弱さではない。
魂が削れているサイン。
(ユッキー……私、怖い)
(怖いと言え。言えたなら、まだお前はお前だ)
京香は、小さく頷いた。
怖い。
それを言える自分を守る。
守ることが、受験と世界の両立の第一歩になる。




