第52話「塾の非常階段――忠勝の“検査”が拳になる」
塾の自習室は静かだった。
静かさが、今日は怖い。
静かさは侵食が入りやすい。
英語長文の設問が、目に入らない。
“正しい答え”のはずなのに、文字が滑る。
「和久さん、顔色悪いよ」
塾講師が心配する声。
心配は温かい。
温かいほど、統治に利用されやすい。
京香は笑ってごまかそうとして、やめた。
嘘をつくな。
月香の便箋の意味が、今は骨に染みる。
「……少し、寝不足です」
嘘じゃない。
夢の雪で眠りが削れている。
そのとき、非常階段の扉が“コン”と鳴った。
軽い音なのに、軍靴の圧が混ざる。
ユッキーが、胸の奥で息を止めた。
(……忠勝だ)
塾の非常階段。
そんな場所に、戦国の個が立つ異常。
京香が階段へ出ると、忠勝はそこにいた。
白い蛍光灯の下でも、彼だけ影の密度が違う。
強さが影を作る。
「和久京香。君は今日、刃を止めたな」
「……見てたんですか」
「見ていた。強い優しさだ」
誉め言葉の形をした、次の検査。
忠勝はまっすぐ言う。
「では、実戦で測る」
忠勝が指を鳴らす。
階段の下から、二人の高校生が上がってくる。
制服。だが目が薄い。器。
片方は折れた定規を握り、片方はコンパスを握る。
“武器になり得る日用品”だけが選ばれている。
現代の戦いだ。
「助けたいか」
忠勝が問う。
質問は簡単。答えは地獄。
京香は唇を噛み、うなずいた。
助けたい。
それが京香の核だから。
忠勝が言う。
「なら助けろ。だが、彼らは止まらぬ。
止めれば痛む。止めねば誰かが死ぬ」
“救えない形”の押しつけ。
第49話の検査が、拳になる。
二人の高校生が同時に突っ込んできた。
狭い階段。逃げ場がない。
京香は後退しない。後退すれば背中を刺される。
(ユッキー、貸して)
(承知)
京香の足が、階段の角度を読む。
手が、相手の“手首”ではなく“軌道”を見る。
刺さる場所を消す。
それがユッキーの教え。槍の戦い方ではなく、線の引き方。
京香は、壁に立てかけてあった消火器を引いた。
噴射しない。
消火器は武器じゃない。
重心をずらす“障害物”だ。
消火器を階段の一段下に置く。
二人の足元が一瞬だけ詰まる。
その一瞬に、京香は一人目の定規の先を手の甲で“払う”。
叩かない。払う。
痛みを最小にして、武器を落とさせる。
定規が落ちる。
二人目がコンパスを突き出す。
目が薄いまま、正確すぎる動き。
それが怖い。人の動きじゃない。
京香は、塾のプリント束を胸に抱えた。
紙の盾。
安直なのに、これが効く。
コンパスの先が紙に刺さり、勢いが止まる。
京香は、刺さった瞬間を逃さずに“持ち手側”の指を押す。
関節を壊さない角度で。
武器を離すだけの力で。
コンパスが落ちた。
二人の目が一瞬だけ戻る。
「……俺、何……」
「……痛っ……」
戻った。
戻ったのに、忠勝が言う。
「甘い」
忠勝が一歩、階段を上がっただけで空気が変わる。
強さが、侵食を“上書き”する。
二人の目が再び薄くなる。
京香の胃が冷える。
救っても救っても、戻される。
忠勝は、京香を見て言った。
「君の優しさは正しい。
だが正しさは、繰り返せば削れる。
それでも繰り返すのか」
京香の指先が遅れる。
体温が落ちる。
魂が冷える感覚が、はっきり分かる。
「……繰り返します」
声は震える。
震えながら言うから、本物だ。
忠勝が、初めて目を細めて笑った。
戦士の笑い。清々しい恐怖。
「よし。なら次は――守る対象を増やす」
守る対象を増やす。
それは、医療現場の地獄と同じだ。
患者が増えれば、救える率は落ちる。
忠勝は踵を返し、階段を降りる。
「和久京香。君は人だ。
だが人は、数に負ける。
数に勝つなら、秩序に従え」
忠勝の背が消えた瞬間、二人の高校生が崩れ落ちた。
京香は駆け寄らない。
近づけば、まだ危ない。
でも、声を落とす。
「大丈夫。息して。
先生呼ぶ。救急じゃない。大丈夫」
その言葉を言い終えたとき、京香の視界が白く滲んだ。
雪ではない。
“疲労”の白。
魂の白。
(ユッキー……私、これ、続けたら……)
(……月香の道だ。だから、俺は止めたい。
だが、止めれば世界が崩れる。
俺は……また天秤にかける)
ユッキーの迷いが、京香の胸に落ちた。
その迷いが、恋に似た温度を持つ。
近い。
近いほど、残酷になる未来が見える。




