第51話「赤備えの“献血車”――優しさが狩りになる」
駅前に献血車が停まっていた。
いつもなら、善意の色だ。白い車体に赤い十字。
でも今日は、違う赤が混じっている。
赤い腕章。赤いジャンパー。赤いバインダー。
井伊直政の赤備えが、献血車の横で行進している。
「若者の健康を守ろう!」
「未来の医療を支えよう!」
その文句は、京香の夢をそのまま撫でる。
撫でた瞬間、掴みに変わる。
「和久さん。ちょうど良かった」
井伊が、もう“偶然”を装う距離にいた。
笑顔は柔らかい。柔らかいほど、逃げ道を消す。
「君は看護師志望だろう。啓発の顔になってほしい」
京香は喉の奥が冷えた。
“顔”。役割。模範。
また、個人が消える単語。
「私、塾があるので」
「なら短くでいい。写真一枚。握手一回。
それだけで、迷っている子が救われる」
救われる。
その言葉が、鎖の形をしている。
胸の奥でユッキーが言った。
(井伊は“善意の見た目”を武器にする。赤は誇りだが、同時に標的になる色だ)
標的。
誰が標的になるか。
誰が“模範から外れた”と示されるか。
献血車の前で、制服の男子が立ち尽くしていた。
目が薄い。器の目。
指先に小さなカッター。白い刃の署名。
西尾の混じる笑いが、音にならないまま滲む。
「……助けたいんだろ?」
男子が、自分の腕に刃を当てる。
“献血”という言葉が、最悪の形で再演される。
京香の全身が硬くなる。
止血したい。止めたい。近づきたい。
でも近づけば、刺される。
助けたい地獄。
井伊が、静かに言った。
「彼を救うには、君が“協力”することだ」
理不尽の形が美しすぎて、吐き気がする。
救いと脅迫が、同じ文に収まっている。
京香は、呼吸を落とした。
救急の現場でパニックを抑えるときの呼吸。
自分の倫理を、刃にしない呼吸。
「……彼は、侵食されてる。彼のせいじゃない」
井伊は笑う。正しい笑い。
「ならばなおさら、秩序が必要だ」
京香は、カバンの中を探った。
傘はない。だが、塾のプリントを挟むクリップがある。
細く硬い金属。
武器じゃない。道具だ。
道具は“止める”に向く。
(ユッキー、貸して。……でも奪わないで)
(承知)
重心が落ちる。
視界の端が研ぎ澄まされる。
世界が“動き出す前”の静止に見える。
男子が刃を引く瞬間、京香は一歩だけ斜めに入った。
近づかない。一直線に入らない。
刺される角度に入らない。
京香はクリップを投げた。
狙いは手首ではない。刃の“根元”。
カッターのスライダーが跳ね、刃が半分だけ戻る。
男子が驚いて目を瞬かせた。
その一瞬、薄い目に“人”が戻る。
「……え、俺……?」
京香は声を低く、短くする。
長い言葉は侵食に負ける。
「大丈夫。深呼吸。刃は手から離して」
男子の指が震えながら刃を落とす。
落ちた刃を、赤備えのスタッフが蹴り飛ばそうとした。
「触らないで!」
京香の声が鋭くなった。
医療の現場では、刃物に触る者ほど危険だ。
そして、証拠が消える。
井伊の目が細くなる。
京香が“模範”ではなく“現場”で動いたことを評価している目。
恐ろしい評価。
「君は適任だ。秩序の側に来い」
井伊が一歩、献血車の影から出た。
その瞬間、赤備えが連動して動く。
個の行動が、隊列に変わる。
それが井伊の強さであり、負け筋でもある――
目立つ統率は、いつか“燃え尽きる”。
京香は、男子の前に立たない。
男子の横に立つ。
盾ではなく、伴走。
“救う”の姿勢。
「私は秩序の道具にならない。
私は看護師になるために、人を人のまま助けたい」
井伊が、ほんの一瞬だけ笑顔を消した。
赤が“狩り”の赤になる。
「なら君を、模範から外す」
その言葉と同時に、駅前の大型ビジョンが切り替わった。
SHINTOUの代表。穏やかな顔。
優しい声。
「不安を抱える若者を救いましょう。
秩序こそが、救いです」
救い。
同じ言葉が、京香には刃に聞こえた。
京香の指先が遅れる。
体温が、さらに落ちる感覚。
代償が、現実の風に混ざる。
(ユッキー……私、削れてる)
(……分かっている。だから、帰れ。今日は勝った。勝ち方が正しい)
勝ち方が正しい。
それが、京香の戦いの唯一の条件。
京香は男子を救急隊へ引き継ぎ、駅前を離れた。
背中に、赤い行進がついてくる気配を感じながら。
追ってくるのは足ではない。
“正しさ”という空気だ。




