第50話「雪が降る前――“失敗の記憶”が校外へ漏れ出す」
放課後、京香は塾へ向かった。
塾は日常だ。受験の戦場だ。
世界を救うとか救わないとか、その前に“合格”がある。
合格があるから、未来がある。
駅前の雑踏は、学校より自由に見える。
自由に見えるだけで、自由は薄い。
薄い自由ほど、統治に侵されやすい。
塾の自習室。
同じ机。同じ椅子。
英語長文を開く。
けれど文字が滑る。
指先が冷えて、シャーペンが落ちる。
拾うのが遅い。
遅れ。代償。
(ユッキー……私、今日はもう……)
(……止めろ。今日は十分だ)
止めろ。
それは逃げじゃない。
月香の道を繰り返さないための停止。
京香は、シャーペンを置いた。
その瞬間、スマホが震えた。
ニュース通知。
『市内高校で“健康管理プログラム”物議』
『保護者会での騒動、拡散』
『SHINTOUが関与か』
校外へ漏れた。
榊原の速さが、校外へ通じた。
学校という戦場が、街へ広がる。
そして、通知の下に、短いメッセージが一つ。
『あなたは正しい側に立てます。
塾の帰り道、気をつけて』
気をつけて。
脅しの形をした優しさ。
優しい刃。
京香は呼吸を整え、録音ボタンを押した。
証拠。兆候。記録。
嘘をつくな。
自習室を出ると、外は風が強かった。
雪は降っていない。
でも、雪の匂いがする。
降る前の匂い。
駅の階段を降りると、赤いジャンパーの集団がいた。
学校の外で。
赤備えが街へ出た。
その中心に、井伊直政が立っている。
そして少し離れた場所に、酒井忠次が影のように立ち、
さらにその奥に、榊原の笑顔が“広告”のように貼り付いている。
井伊が、京香に手を差し出した。
「君は街でも模範になれる。
君の優しさは、街を救う」
救う。
救うという言葉が、鎖に変わる瞬間。
京香は、手を取らない。
代わりに、バッグの中の志望理由書を握った。
紙が薄いのに、胸骨の裏が重い。
薄い紙が、戦旗になる。
京香は言った。
「私は模範じゃなくていい。
看護師になりたいだけです」
井伊が微笑む。
「看護師こそ、模範だ」
酒井が静かに言う。
「街は学校より冷たい。切り捨ては当然だ」
榊原が笑う。
「だから従えばいい。正しい側に」
三つの声が同じ方向を指す。
統治のベクトル。
四天王の役割の差が、“同じ思想”へ収束する瞬間。
そのとき、駅のホームから、拍手が聞こえた気がした。
誰も拍手していないのに。
拍手は、雪の夜の足音へ変わる前兆。
京香の視界の端が白くなる。
雪ではない。霧。
月香の霧。
月香の感覚が流れ込む。
――失敗の記憶は、校内で終わらない。
――2.26は“過去”ではない。
――若者が薄くなる仕組みは、形を変える。
京香は、震える声で言った。
「……私は薄くならない」
胸の奥でユッキーが答えた。
(薄くなるな。薄くなるくらいなら、俺が槍になって止める)
京香は首を振る。
(槍はいらない。
私は、線を引く。
線で止める)
京香は傘を取り出し、地面にそっと置いた。
境界線。
駅前の雑踏の中で、誰にも見えない線。
「これ以上、近づかないで」
井伊が一歩止まる。
酒井が目を細める。
榊原が笑顔を保ったまま、苛立つ。
その一秒が、京香の勝利だった。
勝利は派手じゃない。
一秒の停止。
その停止が、統治の速度を落とす。
だが、雪の匂いが濃くなる。
次の戦場は学校だけじゃない。
街だ。家庭だ。塾だ。
日常そのものだ。
京香は、志望理由書の一行目を胸の中で唱えた。
“私は、人を正しさで救いたくない”
この一文が、最後まで京香を立たせる。
立たせるほど、削れる。
削れるほど、選択の重さが増す。
そして、駅の構内放送がいつも通り流れた。
いつも通りの声が、今は少しだけ命令に聞こえた。
「駆け込み乗車はおやめください」
いつもの言葉が命令に聞こえる日。
それは、統治が日常に溶けた証拠だ。
雪はまだ降らない。
降らないのが、いちばん怖い。




