第5話「白い壁、赤い点」
雨は止んだのに、学校の廊下は濡れていた。
朝の清掃当番が通ったはずなのに、乾いていない。
水滴が点々と続き、まるで誰かが濡れた足で歩いたみたいに、三階の奥へ伸びている。
(女子トイレ……)
京香は息を詰めた。
噂の場所。
怖いなら近づかなければいい。普通はそうだ。
でも京香は、看護師になると決めた。
怖いものから逃げてしまったら、いつか誰かの“怖さ”に寄り添えない気がした。
京香は歩幅を小さくして、三階の女子トイレの前まで行った。
――白い壁。
タイルの白。
それが今日は、やけに“白すぎる”。
白いものが白すぎると、人は不安になる。
病室の白と同じだ。清潔で、無機質で、命の気配が薄い。
京香は喉を鳴らし、トイレの中へ入った。
洗面台の鏡が並んでいる。
鏡の中の自分は、普通の女子高生だ。
目の下に薄いクマがあるくらい。
(……普通。私は普通)
そう言い聞かせた瞬間。
水滴が、逆に動いた。
床の水滴が、“排水溝へ向かう”のではなく、
排水溝から“こちらへ向かってくる”。
京香は息を止めた。
水が逆走する。
それは現実じゃない。
でも目の前で起きている。
胸の奥で、幸村の気配が硬くなる。
「……下がれ」
京香の足が、一歩だけ後ろへ動く。
自分の意志でもあるし、幸村の警戒でもある。
洗面台の下。
排水溝の闇が、少しだけ濃くなった。
そして、音がした。
――カチ。
金属が触れ合うような音。
ナイフを出すときの音に似ている。
京香の手が震えた。
(……誰かいる? 生徒?)
怖さが二つに割れる。
怪異の怖さと、現実の人間の怖さ。
京香は叫びたいのを堪えて、声を落とした。
「誰か、いるの?」
返事はない。
代わりに、鏡の端に“赤い点”が映った。
赤い点。
血のような赤。
水滴の上に、ひとつだけ赤が混じっている。
京香は目を凝らした。
点は、点のままだ。
でも、じわり、と広がる。
(……血?)
胸の奥で、幸村が低く言った。
「……血の匂いがする」
京香の喉が詰まる。
血の匂い。
京香は保健室で嗅いだ。怪我の匂い。
けれど今の匂いは違う。
“嬉しそうな血”の匂いだ。
排水溝の闇の中で、何かが笑った。
笑い声ではない。
喉の奥で擦れる、乾いた笑い。
「……きょう、か」
京香は凍りついた。
自分の名が呼ばれた。
しかも、知っている呼び方ではない。
音が少し古い。
戦国の、名の呼び捨てのような響き。
京香は、声を絞り出した。
「……なんで、私の名前」
鏡の中で、赤い点がもう一つ増えた。
それはまるで、目のようだった。
幸村の気配が前へ出る。
畳ではなく、タイルの床がわずかに“沈む”ような感覚。
「……京香、下がれ」
「……でも、ここは学校」
「学校でも戦場になる」
その言葉が、京香の胸を刺す。
戦場。
ここが。
京香は一歩下がった。
背中がドアに当たる。
逃げ道はある。走ればいい。
なのに足が動かない。
怖いからではなく、現実が追いついていない。
排水溝の闇の中で、声が笑う。
「……さなだ……ゆき、むら」
幸村の名だ。
京香の胸が冷たく痺れた。
幸村の気配が、怒りではなく、憎しみでもなく――
“深い無念”で揺れた。
(……敵は、幸村を知ってる)
京香は理解した。
この怪異は偶然じゃない。
これは“追ってきた”ものだ。
そして、“試している”。
赤い点が、鏡の中でゆっくりと動いた。
京香へ向かって。
京香は、最後の理性で呟いた。
「……私、受験生なんだけど」
声が震える。
それでも言う。
言うことで、日常にしがみつく。
幸村が、短く言った。
「……守る」
その言葉の直後、
トイレのドアの外――廊下で、誰かの足音が止まった。
そして、低い声がした。
「……京香? そこにいるの?」
クラスメイトの声だ。
現実の声。
京香は息を呑む。
怪異と現実が、重なった。
京香が返事をしようとした瞬間、排水溝の闇が大きく笑った。
「……こっちへ、おいで」
鏡の中の赤い点が、瞬間、滲んで“刃”の形を作った。
京香は叫びかける。
声にならない。
そのとき、幸村の気配が、京香の肩の後ろに“立った”。
見えないのに、確実に。
「――見るな」
命令ではない。
祈りだ。
京香は、目を閉じた。
目を閉じたまま、ドアの外へ向かって叫ぶ。
「……今、出る!」
声はかすれた。
でも、現実に届いた。
そして京香は、確信する。
このままじゃ、日常が壊れる。
壊れた日常は、受験も夢も全部巻き込む。
だから――戦う。
望まないまま、戦う。




