第48話「榊原の加速――“正しい炎上”が校内を飲む」
昼休み、教室の空気が変わっていた。
ざわつきではない。
整然としたざわつき。
誰かが段取りを決めたざわつき。
黒板の横に紙が貼られている。
『模範生徒の心得』
『反秩序を許すな』
『健康管理は義務』
紙の字は上手い。
上手い字は怖い。
“自発的”の仮面を被るから。
愛美が京香に近づけずにいた。
近づけば自分が異物になる。
異物は叩かれる。
叩くのは悪意じゃない。正しさだ。
チャイムが鳴る。
先生が入る前に、クラス委員が立った。
「今から“確認”をします。
健康管理シート、提出してない人、手を挙げて」
“確認”。
裁判の別名。
多数の前で少数を炙り出す。
京香は、挙げない。
挙げれば終わる。
終わるのは日常だけじゃない。夢もだ。
だが、隣の席の男子が挙げた。
手が震えている。
震えているのに挙げてしまう。
空気が手を挙げさせる。
クラス委員が笑った。
「じゃあ、放課後残って。
先生に説明してもらうから」
男子の目が薄くなった。
器の薄さ。
侵食の薄さ。
京香は立ち上がりかけて、止まった。
止まったのは怖いからではない。
救い方を選ぶためだ。
(ユッキー、どうする)
(榊原の速さは“集団”だ。集団に正面からぶつかるな。
一人を救う形で、全体の速度を落とせ)
速度を落とす。
戦国の戦術が、教室で必要になる。
京香は、男子の机の下に落ちた消しゴムを拾うふりをして、男子にだけ小声で言った。
「放課後、私も残る。
一人にしない」
男子の目が一瞬だけ戻った。
正気が戻る“瞬間”は、救命と同じく短い。
その瞬間を拾えたら、人は戻れる。
放課後。
教室の後ろに集められた“未提出者”は三人。
そこに京香も入った。
未提出ではない。だが、“反秩序”として数を合わせた。
教室に入ってきたのは、榊原康政だった。
教師ではない。
なのに入ってくる。
それがもう、制度が侵食されている証拠。
榊原は笑顔で言った。
「皆さん、ありがとう。
君たちは“正しい側”に立てる」
正しい側。
その言葉の瞬間、教室の空気が白くなる。
統治の白。刃が冴える白。
榊原は続ける。
「和久京香さん。
君は模範を拒んだ。だが君は優しい。
優しさは、集団に必要だ。
だから、君には役割を与える」
役割。
また、役目。
個人を消す言葉。
榊原が机の上にスマホを置いた。
画面には匿名アカウントの投稿が並んでいる。
京香の名前。歪んだ言葉。切り取られた事実。
「これは止められる。
君が協力すればね」
協力。
協力が脅迫に変わる瞬間。
京香は、目を逸らさない。
目を逸らせば負ける。
負けるのは夢の一文だ。
志望理由書の一行目が汚される。
「何を、協力すればいいんですか」
榊原は笑顔のまま言った。
「健康管理プログラムを肯定する動画を撮る。
君が言えば、皆が安心する。
安心すれば、炎上は消える」
炎上を消す。
火を消す方法が、ガソリンであることがある。
これがそうだ。
榊原は一歩近づく。
言葉が速い。距離が速い。
速度で判断を奪う。
京香は、傘を持っていない。
だが机の横に、箒が立てかけてある。
清掃用具。日常の武器。
京香は箒を手に取り、床にそっと置いた。
境界線。
“これ以上近づくな”を、音なく示す。
「私は動画は撮りません」
榊原の笑顔が薄くなる。
薄さの中に、苛立ちが見える。
速い人間が最も嫌うのは、速度を落とされること。
「君は“正しい側”を拒むのか」
「正しい側って言葉が一番怖い」
京香は、息を整え、言葉を続けた。
「看護師は、患者を“正しい側”に分けません。
悪い人でも、助ける。
怖い人でも、助ける。
だから私は、正しさで人を殴らない」
榊原の目が一瞬だけ揺れた。
揺れは共感ではない。
“危険”の評価。
京香の思想が、統治を壊す危険だと理解した揺れ。
榊原は笑顔を戻し、言った。
「じゃあ、今ここで証明して。
君の優しさが、本当に人を救えるか」
その瞬間、未提出者の男子が、突然カッターを出した。
カチ。
図書室と同じ音。
“署名”が違う。西尾の音にならない笑いが混ざる。
(……来た)
ユッキーの声が低くなる。
榊原の加速が、暴走の臨界を超えた。
世論操作が、現物の刃に変わる。
男子は震えながら自分の腕を切ろうとする。
血で、京香を縛る。
“助けたい地獄”の再演。
京香は走らない。
近づかない。
でも、声を出す。
特訓の回収。
「切らないで! 止めて!
タオル、そこ! 腕じゃなくてタオル押さえて!」
教室の端の女子がタオルを投げた。
京香が昨日まで“模範にされそうだった”女子だ。
その投擲が、日常の反乱。
男子の刃が止まる。
止まった瞬間、榊原の笑顔が崩れた。
速さが止められたから。
だが、背後で拍手が鳴った。
誰も拍手していないのに。
拍手は正しさの音。
榊原が小さく言う。
「……従え」
命令が落ちた瞬間、男子の目が薄くなる。
器になる。
京香は歯を食いしばった。
救う。
救うのは支配じゃない。
救うのは信じる。
信じるのは怖い。
京香は、胸の奥へ言った。
(ユッキー、貸して。……でも奪わないで)
(……承知)
京香の重心が落ちる。
箒が槍のように構えられる。
でも突かない。刺さない。止める。
京香は、箒の柄で男子の手首の“進路”だけを塞いだ。
刃の角度を変える。
血が出ない方向へ。
戦闘は暴力じゃない。制御だ。
榊原の目が細くなる。
“止め方”を見ている。
敵は学ぶ。敵は進化する。
そして榊原は、去り際に言った。
「君の優しさは、確かに強い。
だからこそ――次はもっと、救えない形で試す」
救えない形。
その宣言が、次の雪を予告する。




