第46話「赤備えの行進――“模範”が狩りに変わる日」
朝の校門前に、赤が並んだ。
赤いジャンパー。赤い腕章。赤いバインダー。
“目立つ”ことが安心を生むように設計された色。
「健康管理プログラム、啓発週間です!」
笑顔で配られるのはチラシではない。チェックシートだ。
“推奨”が、紙の形で人の手に入る。
手に入った瞬間から、それは校則に似る。
京香は英単語帳を閉じ、門をくぐった。
机の中の白い便箋は触れていない。触れれば雪が来る。
雪が来るのはまだ早い。今は春の入試のほうが先だ。
そう思い込むのも、戦い方のひとつ。
でも、赤が近い。
「和久さん!」
井伊直政が校門の横にいた。
昨日の保護者会で見た赤いネクタイの男が、今は生徒に混ざる距離にいる。
その“近さ”が、統治の巧さだ。
「君には、模範の役目がある」
井伊は、名前ではなく“役目”で京香を呼ぶ。
役目で呼ばれた瞬間、人は個人ではなくなる。
京香は微笑まない。敵に微笑むと誤解される。
誤解は世論の餌だ。
「私、受験生なんで。朝は勉強したいです」
「だからこそだ。受験生が健康を語る。説得力がある」
井伊は赤いバインダーを開き、紙を見せた。
『模範生徒:健康管理の啓発活動』
『推薦枠:地域医療ボランティア優先』
夢の言葉を餌にしてくる。
“看護師”という目標を、統治の旗に縫い付けてくる。
胸の奥でユッキーが、静かに言った。
(井伊は赤で統率する。目立たせて、一列に並べる。
並ばぬ者は、自然に“異物”になる)
異物。
それは差別の綺麗な言い換えだ。
廊下に入ると、生徒が並んでいた。
赤腕章の“模範生徒”が、チェックを取る。
「体温、記入してください」
「睡眠時間、記入してください」
「朝食、記入してください」
医療に似ている。
でも医療は“同意”がある。
この場に同意はない。空気が同意を代行している。
京香の前の一年生が、手を止めた。
「……書きたくない」
赤腕章の生徒が笑った。
「書かないと、先生に呼ばれるよ?」
笑いは軽い。軽いほど怖い。
軽い言葉で人は追い込める。
一年生の肩が縮んだ。ペンが動く。
その瞬間、京香は見た。
一年生の目が薄くなる。器の薄さ。侵食の薄さ。
(榊原だ)
ユッキーが言う。声が低い。
榊原の“速さ”が、制度の中に入ってきている。
京香は一歩前に出た。
でも叫ばない。叫べば日常が壊れる。
壊せば“反秩序”の証拠になる。
京香は、赤腕章の生徒に短く言う。
「それ、任意ですか。強制ですか」
赤腕章の生徒が笑みを保ったまま、言葉を少しだけ固くした。
「推奨だよ。みんなのため」
“みんなのため”。
あなたのため、の親戚。
優しい刃の言い換え。
京香は呼吸を整えた。
「推奨なら、書かない自由もある。
書かない人を呼び出すのは、強制と同じです」
廊下の空気が止まる。
空気が止まると、次に“誰が正しいか”が始まる。
正しさの拍手が鳴る前の沈黙。
井伊が、背後からゆっくり近づいた。
「君は優しい。だからこそ、秩序を壊す」
同じ文言。
同じ文言が繰り返されると、世界が歪む。
呪文になる。
井伊が、赤いバインダーを閉じる。
「ならば、試験にしよう。
模範生徒の推薦は、君が“協力”するかで決まる」
推薦。
未来。
受験。
夢。
京香の指先が一瞬遅れる。
代償。
“夢”に触れられると、魂が冷える。
京香は、胸の奥に言った。
(ユッキー、貸して。……一瞬だけ)
(……承知)
姿勢が変わる。重心が落ちる。
だが声は京香のまま。
ユッキーは奪わない。貸すだけ。
京香は井伊を見上げる。
赤の檻に、目を逸らさない。
「推薦は、ください。私は看護師になりたい。
でも、そのために他人の自由を削るなら、私は看護師になれない」
井伊の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
揺れの中に、戦国の記憶がちらつく。
赤備えは、誇りの色だった。
だが誇りが制度に縫い付くと、生贄の選別になる。
井伊は微笑みを崩さないまま、言った。
「……良い。ならば、君は“模範”として罰を受ける」
罰。
罰が来た。
制度は、拒否を“罰”で扱う。
その日の放課後、京香の名が校内放送で呼ばれた。
「和久京香さん。進路指導室へ」
廊下の視線が刺さる。
刺さるのは悪意じゃない。多数の無言。
無言の統治。
京香は歩きながら、英単語を一つだけ心の中で唱えた。
“persist”。続ける。
受験も戦場も、続ける者だけが生き残る。




