第44話「酒井忠次――“切り捨て”が正しさになる瞬間」
翌日、学校は“対応”を決めた。
対応は、最も早く制度になる。
廊下に貼り出された通達。
『健康管理プログラム:参加者優遇(進路指導・推薦枠)』
優遇。
差別の言い換え。
『非参加者:個別面談の実施』
個別面談。
隔離の言い換え。
そして京香の名前は、そこに“注記”として置かれていた。
言葉の端にある注記ほど、恐ろしい。
放課後、京香は呼び出された。
場所は進路指導室。
夢を語るはずの部屋が、裁判所に見えた。
部屋にいたのは担任と、酒井忠次。
酒井は椅子に深く座らない。
深く座るのは居座りになる。
浅く座るのが“中立”に見える。
「君が京香か」
「はい」
酒井は、京香の顔色を観察するように見た。
観察は医療にもある。
だが医療の観察は救うため。
酒井の観察は切るためだ。
「君は優しいらしい。優しいのは良い。
だが、優しさは組織を壊す」
組織。
学校を“組織”と言った瞬間、教育は統治に変わる。
酒井は淡々と言う。
「君の件で、学校が揺れている。
揺れは受験生に害だ。
だから揺れを止める。揺れの原因を切る」
切る。
その言葉が怖い。
切るは医療にもある。切開は命を救う。
だが酒井の切るは、排除だ。
京香は、特訓した判断を使う。
怒らない。叫ばない。
逃げ道を塞ぎながら、線を引く。
「原因って、私ですか」
「そうだ」
即答。
迷いがない。
迷いがない正しさは、凶器だ。
酒井は続ける。
「君は参加すればいい。
参加しなければ、君は孤立する。
孤立すれば、成績が落ちる。
落ちれば、夢が折れる」
夢。
夢を人質にする。
これが合理の刃。
京香の指先が冷えた。遅れる。
体温が落ちる気がした。
代償は、こういうときに来る。
心が削れると、魂が削れる。
(ユッキー……)
(……酒井の槍は、論理だ。論理に情でぶつかるな)
京香は息を整えた。
論理に論理で返す。
でも“人間の論理”で返す。
統治の論理ではなく、医療の論理で。
「酒井さん。私は看護師志望です。
医療現場では、合理で切り捨てると人が死ぬ」
「死ぬ? 学校で死ぬ者はいない」
「心が死にます」
京香の声は震えた。震えは弱さじゃない。
震えは、危険を知っている証拠。
「心が死んだら、命も弱ります。
健康管理って、そういうことです」
酒井の目が一瞬だけ細くなった。
切り捨てが、切り捨てきれないものに触れたときの目。
酒井は言った。
「綺麗事だ」
「綺麗事でも、必要です」
京香は、机の上の志望理由書を見せた。
まだ下書き。
でも、今は武器になる。
「私は“助けたい”から看護師になりたい。
助けたいのに、学校が“切れ”と言うなら、私の夢はここで歪みます」
酒井は沈黙した。
沈黙は否定ではない。
合理の人間は、計算している。
“これを切ると反発が増える”という計算。
その瞬間、ドアが開いて榊原が入ってきた。
笑顔。速い言葉。
「酒井殿。ここは私が――」
酒井が手で制した。
静かな手。静かな権威。
「榊原、急ぐな。急ぎは誤りを生む」
榊原の笑顔が一瞬凍る。
“言葉の速さ”の弱点は、速さそのものだ。
速さはミスを生む。
京香はその隙を逃さない。
特訓の回収。
「私は参加しません。
でも、学校の“健康”は守りたい。
だから、条件を明文化してください。
曖昧な推奨は、責任逃れです」
“責任逃れ”という言葉を、京香は選んだ。
酒井の武器である責任を、酒井に返すために。
酒井は、初めて笑った。
音にならない笑いではない。
“認めた笑い”。
薄いが、確かに。
「……面白い。君は切れない」
切れない。
それは脅しではなく、評価だった。
評価は危険だ。敵に評価されると、檻が近づく。
酒井は立ち上がり、言った。
「条件を書面にしろ。
学校が飲めぬなら、俺が学校を切る」
その一言で、室内の空気が変わった。
敵側にも階層がある。
四天王は同じではない。
酒井は家康のためなら非道だが、秩序の“質”にはこだわる。
だからこそ、天海の完全統治に近づきすぎる榊原を警戒する。
榊原の目が、ほんの一瞬だけ冷えた。
その冷えが、“大きな黒幕”への道を示す。
京香は思った。
敵は魅力的だ。
魅力的だから、怖い。
正しさに負ける怖さが、ここにある。
進路指導室を出るとき、廊下の窓から冬の匂いが入った。
雪ではない。
でも、雪の前触れの匂い。
京香は胸の奥へ言った。
(ユッキー。……私、いま、ちょっと勝った)
(勝ちではない。境界線を一つ引いただけだ。
だが、その一本が戦を変える)
一本の線。
傘の線。
同意書の条項。
志望理由書の一文。
小さな線が、統治の巨大な波に抵抗する。
それが、この物語の戦い方だ。




