第43話「保護者会――母の白衣が標的になる夜」
体育館の床は冷たい。
冷たい床は、正しさの床だ。
整列した椅子。整列した保護者。整列した先生。
整列は安心をくれる。
安心は判断を鈍らせる。
壇上に立つのは校長。
隣に立つのは、赤いネクタイの男――井伊直政。
そして一段下、壁際に控えるようにいる白い男――酒井忠次。
笑わない。笑わないことが“公平”に見える。
京香は観客席の後ろから見ていた。
保護者会に生徒は本来いない。
でも京香は、母が“守られる側”にされるのが怖くて、来た。
日常を壊さない範囲で、影のように。
母は前から二列目。白衣ではなく普通の服。
それでも母の背中に白衣の影が重なる。
医療という言葉を、敵はもう掴んでいるから。
校長が言う。
「受験期は不安です。不安が問題を生む。
だから学校は、健康管理プログラムを推奨します」
不安。
不安を“問題”と言った瞬間から、統治が始まる。
井伊がマイクを取る。
声は柔らかい。父親の声に似せている。
母親の耳に入る声。
「お子さんを守りたいですよね。
守るために、秩序が必要です。秩序は救いです」
救い。
救いの言葉が、鎖になる。
保護者の何人かが頷く。
頷きが拍手に変わる寸前の音。
2.26の若者たちが、こうして薄くなっていったのだと、京香は思ってしまう。
母の肩が少しだけ揺れた。
揺れは同意に近い。
同意は恐怖から生まれる。恐怖は責められない。
そのとき、酒井忠次が前に出た。
マイクは使わない。
声を張らない。
静かな声は、体育館の空気を支配する。
「推奨です。強制ではありません。
しかし、非協力的な場合、学校は責任を取りません」
責任。
責任という言葉で、人は従う。
従わない者を“自己責任”で切り捨てる。
酒井の刃は、血を出さずに人を倒す。
母の手が膝の上で握られる。
握りは不安の形。
不安が、鎖に変わる。
酒井は続ける。
「受験は、数値です。
睡眠、体温、集中。管理すれば上がる。
管理しない者は、落ちる」
落ちる。
受験生の親にとって、最も怖い言葉。
京香の胸の奥でユッキーが低く唸った。
(酒井は、情を切る。切って勝つ。
だが――切り過ぎれば、敵が増える)
京香は息を整えた。
いまここで立ち上がれば、母が傷つく。
母の職場にも影響が出る。
日常が壊れる。
京香は、影の場所でできる戦い方を選んだ。
“証拠”だ。
スマホを出し、録音を開始する。
言葉の暴力には、言葉で抗う。
月香の紙――嘘をつくな。兆候を記録しろ。
その瞬間、体育館の出口付近で誰かが倒れた。
ドサッという音。
短い悲鳴。
倒れたのは、保護者の一人。
過呼吸。顔面蒼白。
誰かが叫ぶ。「救急車!」
空気が一瞬でパニックになる。
井伊が動く。
真っ先に駆け寄る。
献身。模範。赤い正しさ。
「落ち着いてください。深呼吸。
秩序を守る。みなさん落ち着いて」
秩序を守る。
救命の場で秩序を叫ぶのは、一見正しい。
だが――その声が命令の形をしている。
倒れた保護者の目が薄くなる。
意識が落ちるのではない。
“器”の薄さ。
京香の背骨が凍った。
(侵食が、現実の救命に来た)
ユッキーが言う。
(井伊は“助ける”を盾にする。酒井は“責任”を槍にする。
どちらも、医療の言葉を奪う)
京香は、走った。
走ったら日常が壊れる。でも――救命は日常だ。
医療志望の京香にとって、ここは逃げてはいけない日常だ。
母が振り返り、京香を見つけて目を見開く。
「京香!? なんで――」
「後で! 今、救命!」
京香は倒れた保護者の前に膝をつく。
近づきすぎない。触れすぎない。
でも状況判断は最速で。
「呼吸、確認。過呼吸。
紙袋、ありますか! ないなら手で、息をゆっくり数えます!」
保健の先生が駆け寄る。
京香は指示を出す。
医療面接の声。恐怖を煽らない声。
そのとき、酒井が近づいてきた。
目が冷たい。冷たい目は公平に見える。
「君は生徒だな。勝手に出てくるな。責任が取れるのか」
責任。
責任の刃。
京香の喉が焼けた。
京香は酒井を見上げ、短く言う。
「責任は、命の側にあります」
酒井の眉が一瞬だけ動いた。
小さな揺れ。
合理の人間は、命の合理に弱い。
命は数値で測れないから。
井伊が、倒れた保護者の手を握ろうとする。
握るのは献身。
でも握りは、侵食の導線にもなる。
京香は一歩だけ前に出て、井伊の手の前に“境界線”を作るようにタオルを差し込んだ。
「直接握らないで。刺激が強い。
タオル越しに支えて、呼吸を整えさせて」
井伊が微かに目を細めた。
命令ではなく、驚き。
“医療の正しさ”に驚く顔。
井伊は、タオル越しに支えた。
その瞬間、倒れた保護者の目がほんの少し戻った。
器の薄さが剥がれる。
京香は胸の奥で思った。
“救える”。
でもこれは、敵の罠でもある。
救命の成功が、敵の正しさを補強する。
案の定、校長がマイクで言い出した。
「今のような不安こそ、管理が必要なのです!」
酒井が静かに言う。
「ほら。必要だろう」
正しさが、事件を栄養にする。
これが統治のやり方。
2.26の雪の夜も、こうして“正しさ”が事件を食べて育った。
京香は、録音を止めなかった。
証拠は、後で“校則”を折る刃になる。
倒れた保護者が落ち着いたとき、母が京香の肩を抱いた。
抱く手が震えている。
震えは恐怖。恐怖は責めない。
母は小さく言った。
「……京香、あなた、ほんとに看護師になりたいんだね」
京香は頷いた。
頷きは拍手じゃない。
人間の頷き。
その夜、体育館の外の空気は、少しだけ冷えが強かった。
冬の匂いが、雪の夜へ近づく匂いに変わっている。




