第42話「判断訓練――“救いたい地獄”の再演」
夜。机のライトは暖かい。
暖かい色は、世界がまだ普通だと錯覚させてくれる。
錯覚は必要だ。受験生は錯覚で呼吸をする。
京香は志望理由書の下書きを広げた。
「なぜ看護師になりたいか」
母の夜勤。倒れる夜。救急の匂い。
書ける。書けるのに、手が止まる。
“模範になれ”
“秩序のために使え”
言葉が邪魔をする。邪魔は侵食だ。
胸の奥でユッキーが言う。
(特訓だ。状況判断を積む。言葉に刺される前に動く)
「……いまから?」
(いまから。受験も戦場も、待ってくれぬ)
京香は頷き、机の上に三つのものを置いた。
タオル。油性ペン。傘。
「条件。殺さない。触れない。日常を壊さない。
これでできる範囲だけ」
(良い。では問う)
ユッキーの声が低くなる。
胸の奥から来る声なのに、外の空気が少し硬くなる。
それが、怖い。
でも怖いと言える。
(状況一。相手は高校生。刃物。出血。周囲に人。
相手は“助けたい”というお前の倫理を使ってくる)
京香の喉が冷える。
図書室。白い床。赤い血。
あの“助けたい地獄”。
「……相手の出血を“自分だけで”止めようとしない。
タオルを投げる。指示を出す。周囲に救急要請。
私は距離を保つ」
(良い。では状況二)
ユッキーの声が少し速くなる。
速さは榊原の武器だ。
ユッキーは速さに呑まれないために、速さを訓練に入れてくる。
(相手が“被害者”として倒れ、第三者があなたを責める。「なぜ助けない」と)
京香の胸が締まった。
責める声。正しい声。
それが一番痛い。
「……助ける。助けるけど近づかない。
説明する。『今は安全確保が先』って。
感情で叩かれても、判断を捨てない」
(状況三。相手は“模範”を餌にしてくる。
「従えば救える。従わねば救えない」)
京香は、口の中が乾いた。
井伊の赤い檻。
“志望理由”という餌。
「……救える形の救いは、救いじゃない。
救う側が支配者になったら、医療じゃない」
その瞬間、胸の奥でユッキーが一拍沈黙した。
沈黙が珍しいほど、ユッキーも揺れている。
(……俺は戦場で、救うために従わせたことがある)
京香は息を呑んだ。
幸村の過去が、わずかに覗く。
覗いた瞬間、胸が痛い。
英雄の痛みは、簡単に憧れに変わってしまう。
憧れは危険だ。依存になる。
京香は、言った。
「ユッキー。あなたの戦場の救いは否定しない。
でも、私の救いは、従わせない」
(……分かった)
分かった、が苦い。
分かった、が誠実。
誠実な苦さは信頼に変わる。
信頼は温かい。温かいのが怖い。
ユッキーが続ける。
(最後。状況四。――相手が“自分の腕を切る”。
血を見せて、お前の倫理を引きずり出す)
京香の視界が一瞬白くなった。
図書室の赤が蘇る。
「……私は、走らない。近づかない。
でも、声を出す。指示を出す。
『それで押さえて』って――」
言いかけた瞬間、京香の指先が痺れた。
ペンが床に落ちる。
拾うのに、遅れる。
遅れ。
代償。
ユッキーの気配が鋭くなる。
(止めろ。いま、お前は削れている)
「……だって、訓練しないと……」
(訓練は必要だ。だが、削れたまま続けるのは月香の道だ)
月香。
その名が出ると、胸の奥が一段冷える。
月香の犠牲。不可逆。例外なし。
京香は、唇を噛んだ。
机の引き出しから、白い便箋(六つの透かし)を取り出す。
触れると雪の匂い。
夢の匂い。
便箋に、赤ペンで短く書く。
『訓練:続ける/でも、削れたら止める』
『止める=逃げではない』
止めることを、肯定する文字。
戦場では難しい肯定。
受験では必要な肯定。
その瞬間、スマホが震えた。
母からのメッセージ。
『明日、保護者会。大丈夫?』
“大丈夫?”という言葉が、京香を救う。
救う言葉が、統治に奪われる前に、守らなきゃいけない。
京香は返信した。
『大丈夫。勉強も、やる』
胸の奥でユッキーが静かに言う。
(良い。戦場でも、兵は飯を食う。寝る。学ぶ。
それを怠れば、勝つ前に崩れる)
京香は笑いそうになった。
戦国の言葉が受験に合うのが可笑しい。
可笑しいのに、救われる。
だがその救いの裏で、拍手が遠くで鳴った気がした。
明日の保護者会に向けて、“正しさ”が整列している音。




