第41話「赤の誘い――“模範”という名の檻」
校内放送の声は、毎朝、同じトーンだった。
同じトーンは安心をくれる。
安心は、油断を呼ぶ。
「健康管理プログラム、参加は推奨です。あなたのためです」
“あなたのため”。
その言葉が今はもう、京香の背骨に冷たい線を引く。
今日も机の中で六文銭が鳴らないように握った。音は、日常を壊す。壊す音は敵の餌になる。
英単語帳を開く。
一ページだけ。
受験生の戦いは、逃げないことではなく、続けることだ。
隣の席の愛美が、視線を泳がせながら言った。
「京香……保護者会の前にさ、親向けの説明会あるって。学校の“おすすめ”だって」
おすすめ。推奨。
言い換えは制度の滑り止めだ。滑り止めが増えるほど、人は落ちない代わりに歩けなくなる。
「……行くの?」
「お母さんが行けって。怖いんだって、最近。SNSの噂もあるし……」
京香は愛美を責められない。
怖いのは当然だ。
怖いを“管理”しようとするのが、統治だ。
昼休み、職員室前の掲示板に“赤”が混ざった。
今までの紙は白い正しさだった。
赤は目立つ。赤は使命を匂わせる。赤は人を“燃やす”。
『模範生徒制度:推薦者募集』
『地域医療ボランティア:優先参加』
医療。
夢の言葉を、敵が拾い上げた。
胸の奥でユッキーが低く息をした。
(来る。名誉で縛る)
「名誉で縛るって、どういう……」
(戦場で最も強い鎖は、褒め言葉だ)
京香は唇を噛んだ。
褒められたいわけじゃない。
でも、看護師になりたい。医療ボランティアは志望理由書に書ける。面接で刺さる。
その誘惑が“正しく”見えるほど、苦しい。
放課後、担任に呼ばれた。
会議室の白い壁。白い蛍光灯。
白が、統治の白に見えてしまう。
「和久さん。進路のことでね。君、看護志望だろ?」
「はい」
担任は言いにくそうに、赤い紙を机の上に置いた。
「地域の医療ボランティアに参加できる枠がある。君なら推薦できる。
ただ……条件がある」
条件。
条件の数だけ、人は人でなくなる。
「“健康管理プログラムに協力的であること”だ」
“協力的”。
協力は善意の顔をしている。
協力が義務になる瞬間、若者は薄くなる。
京香は一拍遅れて指先が動くのを感じた。
遅延。
魂の冷えが、判断を遅らせる。
この遅れが、後で致命傷になる。
(ユッキー、いま、私は揺れてる)
(揺れるなとは言わぬ。だが、揺れたまま決めろ)
揺れたまま決めろ。
戦場の言葉なのに、受験の言葉でもあった。
京香は担任を見た。
「先生。私はボランティアに行きたいです。
でも、条件の“協力”が何を意味するか、明文化してください」
担任は目を瞬かせた。
「明文化……?」
「データの扱い、第三者提供、撤回、期限。
医療は同意が必要です。学校でも同じです」
担任の表情が少しだけ困った。
困った顔が、人間の顔で救われる。
そのとき、会議室のドアがノックされた。
スーツの男が入ってくる。赤いネクタイ。
笑顔が眩しいほど正しい。
「失礼します。SHINTOUの井伊直政と申します」
名乗りが落ちた瞬間、京香の視界が一瞬だけ赤くなる気がした。
赤は血の色ではない。旗の色だ。
“正しさの旗”。
井伊直政――四天王。家康のためなら命も思想も捨てる献身。
歴史の逸話が現代の会議室に座った。
井伊は京香にだけ向けたような柔らかい声で言う。
「あなたのような志望を持つ方が、模範になるべきです。
模範は、弱者を救う。あなたは、救う側に立てる」
その言葉は甘い。
甘いのに、背中が冷える。
救う側に立てる――それは、京香の夢そのものだ。
京香は、声を震わせながらも言った。
「“模範”って、誰のためですか」
井伊は微笑んだ。
「あなた自身のため。そして、皆のため。
あなたが従えば、皆が安心する」
従えば。
そこに鎖がある。
ユッキーが胸の奥で低く言った。
(井伊の負け筋は“献身”だ。献身は自分を燃やして終わる)
京香は息を整えた。
“終わる”。
ユッキーの救いが終わらせることなら、京香の救いは終わらせないこと。
違うから、ぶつかる。
ぶつかるから、二人は並べる。
京香は井伊に言った。
「私は従いません。
でも、救いたい。救う方法を、私が選びます」
井伊の瞳が、一瞬だけ揺れた。
揺れは怒りではない。
“懐かしさ”。
旗の下で若者が言いそうな言葉を、現代の少女が言ったから。
井伊は静かに頷く。
「良い。ならば――君の献身が本物か試そう。
名誉を与える。だが名誉は、責任も与える」
赤い檻が、開いた。
開いた檻ほど、入りたくなる。
京香は、六文銭を握り、心の中で線を引いた。
(私は、模範にならない。
でも、志望理由は奪われない)
受験も戦場だ。
敵は世界だけじゃない。
“正しさの甘さ”が、京香の夢を奪いに来る。




