第40話「校則が完成する日――“正しい隔離”の始まり」
朝、靴箱の前で足が止まった。
掲示板の紙が増えている。
紙は増殖する。正しさは増殖する。
『健康管理プログラム参加は“推奨”』
推奨。
推奨は、事実上の義務に変わる。
『非協力的行為は、学習環境を乱します』
学習環境。
受験生にとって最も怖い言葉。
そして――
『特別指導対象:京香』
名前が書かれていた。
フルネーム。
字が丁寧すぎる。
丁寧さが残酷だ。
周囲の生徒が、見て見ぬふりをする。
見て見ぬふりは、加害の一形態だ。
でも、生徒たちを責められない。
彼らもまた、受験生で、弱者で、不安の中にいる。
(榊原が“多数”を取った)
ユッキーの声が沈む。
(まだだよ)
京香は胸の奥へ返す。
まだ、だ。
多数は取られても、一人の芯は折れていない。
教室に入ると、席が変わっていた。
京香の机だけが、窓際の一番後ろ。
隔離。
視線の外。
空気の外。
担任が、申し訳なさそうに言う。
「和久さん……学校としても、対応が必要で……」
対応。
対応は正しい。
正しさが制度になる瞬間、刃が生まれる。
「私、何かしましたか」
京香の声は小さい。
小さい声でも、教室が静まる。
静まりは、正しさの前触れ。
担任は目を逸らす。
担任が嘘をついているのではない。
担任もまた制度に飲まれている。
「君のためだ。受験生だろ。余計な問題に関わるな」
君のためだ。
最も優しい刃。
京香は、深呼吸した。
特訓した判断。
いま必要なのは怒りではない。
線引きだ。
「先生。私は受験生です。だからこそ、ここで嘘を飲み込めません」
担任が固まる。
その固まりの向こうで、教室の空気が揺れる。
窓の外で拍手が鳴った気がした。
誰も拍手していないのに。
正しさが拍手している。
その拍手に重なるように、校内放送が流れた。
『健康管理プログラムの説明会を実施します。
参加は推奨です。推奨は、あなたのためです』
声は優しい。
優しい声が命令形の構造を持つ。
天海の呼吸が、校内放送に混ざった。
京香は、椅子に座りながら、机の中の六文銭に触れた。
冷たい。
冷たいのに、現実に繋がる。
そのとき、机の上に紙が置かれた。
誰かが置いた。
白い便箋。透かしの六つの円。
月香の残像の紙。
京香は、息を止めた。
紙は夢ではない。
現実に残る干渉。
便箋には文字はない。
でも、触れた瞬間に感覚が流れ込む。
――隔離は、秩序の完成。
――秩序が完成した日に、事件は起きる。
――雪の夜は、完成した秩序の上で起きた。
二・二六。
史実の事件は、秩序の危うさが極限まで高まったときに起きた。
青年たちは、秩序を守るつもりで秩序を壊した。
そのねじれが、ここに再演されようとしている。
京香の喉が冷える。
そして同時に、京香の中で何かが固まった。
(私は、英雄にならない)
(でも、隔離されても、折れない)
教室の後ろで、誰かが小さく言った。
「……京香、めんどくさ」
その声は刃ではない。
ただの弱さだ。
弱さは責めない。
弱さを利用する統治を、止める。
昼休み。
京香は一人で廊下を歩いた。
保健室の前を通ると、スーツの男が立っている。
器の目。
その背後の壁に、赤い紙が貼られていた。
――“赤”。
井伊直政の色。
献身と象徴の色。
目立つことを、美徳に変える色。
スーツの男が言う。
「協力すれば、あなたは“模範”になれます。
模範は、救いです」
模範。
名誉。
選ばれる罠。
京香は、一瞬揺れた。
選ばれたら楽だ。
選ばれたら孤立しない。
選ばれたら、夢に集中できる。
その揺れに、ユッキーが気づく。
胸の奥が少し痛む。
(……揺れるのは当然だ)
(揺れていい。でも、決める)
京香はスーツの男を見て、ゆっくり言った。
「私、模範になりません。
看護師って、模範じゃなくて、患者の隣に座る人だから」
男の笑顔が、ほんの少しだけ割れた。
割れ目の向こうに、別の影が覗く。
井伊の献身が、個人を潰す献身へ変質する前の痛み。
そして――廊下の奥。
忠勝が、じっと見ていた。
榊原の影も、遠くで動いている。
四天王が揃い始めている。
学内の秩序が完成した日に、彼らは“実戦”へ入る。
京香は、自分の机に戻った。
赤ペンを握る。
英語長文の問題を開く。
受験も同列の戦争だ。象徴負けさせない。
問題文の単語が、一瞬だけ霞んだ。
指先が遅れる。
体温が低い。
代償が近い。
それでも京香は線を引く。
「私は夢を捨てない。
隔離されても、夢をやる。
それが――私の反抗」
胸の奥でユッキーが、静かに息を吐いた。
(……見事だ、京香)
その言葉が救いになるのが怖い。
救いが依存に変わるのが怖い。
でも、怖いと言える自分がいる。
窓の外で、拍手が鳴った。
今度は気のせいではなかった。
説明会の練習で、誰かが拍手していた。
正しさの練習。
正しさが制度になる音。
京香は、拍手に飲まれず、赤ペンで一問を解き切った。
小さな勝利。
小さな勝利が、侵食への境界線になる。
――学内の校則は完成した。
だからこそ、ここからが本当の戦場になる。




