第4話「受験生の戦場」
昼休み、京香は保健室の前で足を止めた。
中から聞こえる声は、泣き声ではない。
笑い声でもない。
“痛みを隠そうとする声”だ。
京香はノックをして、扉を開けた。
「失礼します」
中には一年生の男子がいた。手首を押さえている。
体育で転んだらしい。手のひらの皮が剥け、細い血の線が見えた。
「大丈夫?」
京香は言いながら、棚から消毒液とガーゼを取った。
先生が席を外しているらしい。保健委員の札が京香の胸で揺れる。
「痛い……」
「うん、痛いよね。でもね、ここでちゃんと洗うと跡が残りにくい」
京香は声を低くした。
看護師志望の子がやりがちな“正しさ”を押しつけない。
痛いのは痛い。そこを否定しない。
男子は少しだけ頷いた。
京香が傷口を洗うと、男子の肩の力が抜けた。
そのとき、京香の耳の奥で、ふっと風が鳴った。
(……まただ)
夜の気配。
あの冷たさ。
けれど、ここは昼の保健室。光がある。
京香は、気配を無視した。
無視するのではなく、脇へ置いた。
いま目の前の“人”を優先する。
処置を終えると、男子は小さく言った。
「……ありがとう」
京香は頷いた。
「ううん。部活、無理しないでね。今日だけは」
男子が出て行くと、保健室が静かになった。
窓から入る冬の光が白い。
その白さが、昨夜の“雪の白さ”に繋がりそうで、京香は一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥で、幸村が息をした気配がした。
昼なのに。
京香の中に“同居”が続いている。
「……京香」
声は小さい。
鼓膜ではなく、胸に響く。
(今、話しかけないで。私、普通でいたい)
京香は答えない。
答えない代わりに、心の中で短く言う。
(夜。夜だけ)
すると幸村の気配は、引いた。
引くのが分かる。
この人は、押し込まない。
その事実が、京香を少しだけ救う。
放課後。
京香は塾へ向かう前に、校門の横の掲示板を見るふりをした。
――女子トイレの噂。
小さな紙に書かれた落書き。
消されかけているが、読める。
『三階女子トイレ、夜に笑い声』
京香の背中が冷える。
(夜だけ、じゃない)
帰り道、コンビニの前で足を止めた。
温かい肉まんの湯気が、雨の気配を忘れさせる。
京香は肉まんを買って、袋を持ったまま歩いた。
ふと、笑ってしまう。
(私、何してるんだろ。幽霊がいるのに、肉まん買ってる)
すると胸の奥で、幸村が不意に言った。
「……その白いものは何だ」
「肉まん」
「にく……まん」
噛みしめるような言い方。
京香はつい、笑いをこぼす。
「食べる?」
「……食えるのか」
京香は歩道の端で立ち止まり、肉まんを少し割った。
湯気が上がる。
「本当はダメだよ。衛生的に。でも……」
京香は一瞬迷って、少しだけ口を近づけた。
ふわり、と匂いが立つ。
その瞬間、胸の奥で幸村が“驚く”気配がした。
匂いに驚く。温度に驚く。
戦場の人が、湯気に驚く。
京香は思う。
(この人、怖い存在じゃない。怖いのは――別のやつだ)
夜になると、それは確信になった。
机に向かう京香の背後で、影が少しだけ濃くなった。
幸村の気配が“前へ出る”。
「……京香」
「なに」
「……お前は、戦を望まぬのだろう」
「望まない」
「なら、望まぬままでよい。だが――」
言葉が途切れた。
途切れ方が、昨夜と似ている。
「だが、来る」
京香は鉛筆を握り締めた。
模試の問題より、よほど答えが出ない問い。
――私は、受験生で。
――普通の高校生で。
――それでも、来る。
京香は問題集の余白に、また六つの円を描いた。
そして小さく呟く。
「……明日も、塾あるんだからね」
幸村の気配が、ほんの少しだけ困ったように揺れた




