第39話「忠勝の弱点――“強さ”が守れないもの」
放課後の校庭は冷えた。
風が強い。
風の音が雪の夜の音に似ている。
京香は、傘を構えた。
傘は武器ではない。境界線だ。
「状況。――相手は刃物。場所は狭い。周囲に一般人。どうする」
胸の奥でユッキーが問いを投げる。
特訓。判断訓練。
勝ち負けのない特訓。
「距離を取る。逃げ道を作る。助けるために近づかない」
「良い。次」
「相手が“助けたい地獄”を作ってきたら」
京香は一瞬、呼吸が止まった。
図書室の血。白い床の赤。
思い出すだけで胃が冷える。
「……タオルを投げる。指示を出す。周囲に助けを求める。
私が治療を“独占”しない」
ユッキーが小さく息を吐く。
「お前の医療は、戦場の常識を壊す。……だから、怖い」
「怖いって言うんだよ。嘘をつかないって決めたから」
言った瞬間、自分の声が少し強くなった気がした。
強くなったのに、体温は上がらない。
そのとき、校庭の端の影が動く。
風の中でも姿勢が崩れない男。
鎧を着ていないのに、鎧の気配がある。
本多忠勝。
京香は、傘を下ろさない。
下ろした瞬間、試験が始まる気がした。
忠勝は近づいて来た。
歩幅が一定。
軍靴の規律。
だが、笑みは清い。悪意がないのが一番怖い。
「京香」
名前を呼ばれる。
呼び捨て。
距離が近い。
守る側が守る相手を呼ぶときの呼び方。
「……本多さん」
「忠勝でよい」
“忠勝でよい”は、命令ではない。許可の形をした命令だ。
京香は飲み込まない。
境界線を守る。
忠勝は、傘を見た。
「それが、お前の槍か」
「槍じゃない。境界線です」
忠勝は、目を細めた。
評価の目。怒りではない。
良い教師の目に似ていて、胸がざわつく。
「守るために線を引く。
戦場では、それは弱さと呼ばれる」
「……私は戦場の人じゃない」
「だが、戦場がお前に来た」
忠勝の言葉は真っ直ぐだ。
榊原のように言葉を曲げない。
だから刺さる。
忠勝は一歩踏み出した。
京香は半歩引く。距離を守る。
それだけで指先が冷える。遅れる。
代償が、動作に混ざる。
忠勝が言った。
「お前の優しさは強い。
だが――強い優しさは、誰かを救えない」
その一言が胸を貫いた。
救えない。
救えない瞬間がある。
京香はそれを分かっている。
分かっているから、医療者になろうとしている。
「救えないなら、どうする」
忠勝は問いではなく、試験として言う。
京香は答えた。
特訓で磨いた判断。
「……救えないことを認める。
でも、止める。苦しみを止める。
救えないからって、殺して終わらせない」
忠勝の目が、一瞬だけ揺れた。
揺れは驚きではない。
懐かしさに似ていた。
「……終わらせない、か」
その言葉が忠勝の喉の奥で引っかかったように見えた。
強さの人は、終わらせることが救いになる場面を知っている。
ユッキーが胸の奥で低く言う。
(忠勝は、強い。だが――守れぬものがある)
京香は、息を整えた。
「守れないものって?」
ユッキーの返事は、少し遅れた。
(……守りたかった者を、守れなかった者の目をしている)
忠勝の視線が、ふと講堂の方へ流れた。
そこは、昨日の講座の場所。
榊原の言葉が支配した場所。
忠勝は、拳を握って開いた。
握るのは暴力。開くのは葛藤。
「言葉は速い。
速すぎる言葉は、刃より人を殺す」
忠勝が、そう言った。
それは戦国の武人の言葉ではない。
“統治”を知った者の言葉だった。
京香は、忠勝の“弱点”を見た。
強さは完成している。
だが、強さは時代を動かせない。
言葉の統治を止められない。
忠勝は京香を見た。
「お前の戦い方は、俺にはできぬ。
触れずに止めるなど……蜻蛉切では無理だ」
蜻蛉切。
触れただけで切れる槍。
伝説の逸話が、ここで生きる。
京香は、震えた。
歴史の逸話が、現代の校庭で息をした。
歴史がただの知識じゃなく、敵の呼吸になっている。
忠勝は続ける。
「だから、俺は試す。
お前の優しさが、どこまで耐えるか」
耐える。
耐えるのは、痛みに耐えることではない。
選択に耐えること。
救えない瞬間に耐えること。
忠勝は、背を向けた。
去り際に言う。
「学内の秩序が完成する前に、お前が折れるか。
それとも――秩序の方が折れるか。見届ける」
その言葉は宣告だった。
宣告は、医療にもある。
ただし医療の宣告は、救いの入口だ。
忠勝の宣告は、試験の入口だ。
京香は傘を握りしめた。
指先が遅れる。
体温が下がる。
でも、胸の奥が少しだけ温かい。
(ユッキー。私、いま、怖い)
(怖いと言え。――それが、お前の強さだ)
月香の紙と同じ言葉。
嘘をつくな。
怖いを言え。
京香は、怖いを言えた。
だから折れなかった。




