第38話「保健室の統治――カルテが監視に変わる」
保健室のドアは、いつもより重かった。
ノブを回す指先が、少し遅れる。
京香は、体調不良を装わない。
体調不良は、事実だ。
事実を事実として言う。嘘をつくな――月香の紙が、胸の奥で息をしている。
「失礼します」
白いカーテン。白いベッド。白い消毒液の匂い。
白が、夢に似ている。
保健の先生は優しい人だ。
優しい人ほど、制度に組み込まれやすい。
その優しさを、誰かが利用する。
先生は笑った。
「あら、京香さん。最近、顔色悪いわね。受験?」
「はい。……あと、手が冷えて」
京香は手を差し出した。
触れられるのは嫌だった。
でも、医療の入口は触診だ。
先生は京香の手を取って、首を傾げる。
「うーん、確かに冷たい。生活、乱れてる?」
乱れているのは生活だけじゃない。
魂が冷えている。
口には出さない。
先生はカルテを引き出しから出した。
学校の保健室のカルテ。
そこに、京香の名前がある。
その瞬間、胸の奥でユッキーが小さく唸った。
(紙だ)
紙。
月香の残像が残した紙。
榊原が講堂で褒めた“記録”。
紙は守るためにも、縛るためにも使える。
保健の先生が言う。
「ねえ、最近さ……『健康管理』の新しい取り組み、始まるんだって」
京香の背中が冷えた。
「……何ですか」
先生は悪意なく答える。
「生徒の睡眠や体温をデータ化して、ストレスを予防するの。いいことよね」
いいこと。
いいことの形をした監視。
「それ、誰がやるんですか」
「外部の専門家。ほら、昨日の講座の人たち、いたでしょ」
――榊原。
言葉の速度が、保健室にまで入り込んだ。
京香は、口の中が乾いた。
保健室は“救う場所”であるべきだ。
そこが“管理する場所”になったら、京香の夢が歪む。
先生が続ける。
「京香さんも参加してみない? あなた、看護師志望だし。将来役に立つわよ」
将来。
夢の言葉を、統治が利用する。
京香は、ここで「嫌です」と言えば終わりだと分かっていた。
拒否は反抗の印になる。
反抗は病とされる。
病は隔離される。
だから、京香は別の戦い方を選ぶ。
特訓した判断。
「先生。参加するなら、条件があります」
先生が目を丸くする。
「条件?」
「データの保管先と、責任者を明確にしてください。
あと、“本人の同意なしに共有しない”って文書で」
先生は困ったように笑った。
「ええ……そこまで必要?」
京香は真っ直ぐ言った。
医療の声で。冷たくない声で。
でも引かない声で。
「必要です。医療は、同意がないと成立しません。
健康管理も同じです」
先生の笑顔が少しだけ揺れた。
揺れは、先生の中の本当の医療倫理だ。
そのとき、ドアがノックされた。
「失礼します」と言って入ってきたのは、スーツの男――SHINTOUのスタッフ。
顔は笑っている。目が薄い。器の目。
「健康管理プログラムの説明に来ました」
保健の先生が慌てて立ち上がる。
「ちょうどよかった」
正しい場面転換。制度が滑り込む。
男は資料を机に置いた。
資料の表紙にある言葉が、京香の胃を冷やす。
――「全校生徒の健康を守るために」
守る。
守るという言葉は正しい。
正しさが過剰になると、統治になる。
男は京香を見て、柔らかく言った。
「あなたが京香さんですね。
昨日、講座で素晴らしい発言をされたと聞きました。
正しい努力ができる方は、私たちの味方になれます」
味方。
正しい側。
言葉の刃。
京香は、男の目を見返した。
逃げない。叫ばない。
境界線を引く。
「私、味方になりたいわけじゃないです。看護師になりたいだけ」
男が笑う。
音にならない笑いではない。
“整然とした笑い”。榊原の系統。
「だからこそです。
医療は秩序を必要とします。従うことは救いです」
従うことは救い。
天海の言葉が、男の口から滑り出る。
声の奥に僧衣の影が重なった気がした。
京香の指先が一段冷える。
体温が持っていかれる感覚。
(代償が近い)
ユッキーが低く言った。
(ここで憑依は使うな。お前の魂が削れる)
京香は心の中で頷いた。
戦闘ではない。制度戦だ。
制度戦に槍は要らない。要るのは倫理だ。
京香は男に言った。
「医療は秩序を必要とします。
でも、患者の同意がない秩序は、暴力です」
男の眉が、わずかに動いた。
器の目の奥に、別の意思が一瞬だけ覗く。
榊原が裏にいる。言葉の速度の影。
男は、優しいまま命令形に変えた。
「同意は取ります。署名してください。あなたのためです」
京香は、紙を見た。
署名欄がある。
署名は境界線を越える行為。
京香は紙を掴まない。
代わりにペンを取った。
そして、署名欄の横に小さく書いた。
――「同意は撤回できる」
――「第三者提供しない」
――「保管期限」
医療現場の“同意書”の癖。
条項を入れる癖。
男の笑顔が、一瞬だけ止まった。
止まった瞬間、京香は見逃さなかった。
制度は、詳細を嫌う。
詳細は責任になる。責任は統治を重くする。
「……これは」
男が低い声になった。
低い声は、正体が出る前触れ。
京香は、先生の方を向いた。
先生に言う。
敵に言うのではなく、味方になり得る人に言う。
「先生。これがない同意は、同意じゃないです」
先生が、ゆっくり頷いた。
頷きが拍手ではない頷き。
人間の頷き。
男は笑顔を作り直した。
だが、作り直した笑顔の奥で、拍手が鳴っている気がした。
(榊原。……怒ったな)
ユッキーの声が冷える。
京香は胸の奥へ返す。
(怒っていい。私は、患者を守る側になる)
保健室の白は、まだ守る色だった。
だが、守る色の中に、統治の白が混ざり始めている。
混ざり始めた瞬間に気づけたことだけが、京香の勝ち筋だった。




