第37話「校内講座――“正しい努力”のプロパガンダ」
講堂の椅子は硬い。
硬さが、規律に似ている。
「本日の特別講座は、進路と社会に関する重要なお話です」
教頭の声が滑らかに響く。
滑らかさが怖い。角がない言葉ほど、命令に変わりやすい。
壇上にはスーツの男。
校内の先生ではないのに、校内に馴染みすぎている。
整然としていて、笑顔が正しい。
榊原康政。
昨日、京香が階段の踊り場で感じた“制度の白”が、講堂全体に薄く広がっている。
榊原はマイクを握らない。
握れば支配になる。
あえて手を添えるだけ。優しい形。
「皆さん、受験は不安ですよね」
その言葉に、京香の胸が小さく疼く。
受験は不安だ。
不安は悪いことじゃない。
でも――不安を“管理する”と言われた瞬間から、不安は武器に変わる。
榊原は続ける。
「不安は、人を争わせます。争いは、弱者を傷つけます。
だから、正しい努力が必要です。正しい努力とは――」
講堂のスクリーンに映るスライド。
「努力の可視化」「正しい生活」「指標管理」
言葉が、どこか医療のカルテに似ているのが嫌だった。
京香の記録は、自分を守るためのもの。
向こうの記録は、人を測るためのもの。
(ユッキー)
(……言葉の槍だ。刺さる前に、折れ)
京香は目を閉じかけて、開いた。
見ないと折れない。
榊原は穏やかに笑う。
「例えば、睡眠。食事。体温。集中力。
整えることは、皆さん自身のためです。迷うな」
――迷うな。
その一語に、雪の夜が重なる。
“迷うな”は、若者を薄くする。
2.26の若者たちは、迷うことで人間だった。
迷いを奪われた瞬間、思想の器になった。
京香は立ち上がらない。
立ち上がれば、日常が壊れる。
だが、日常はもう壊され始めている。
講堂の後ろの方で拍手が起きた。
数人が、先に笑う。
笑いは正しさの合図になる。
同調が、校則になる。
榊原が言う。
「努力は素晴らしい。
しかし、努力を否定する者がいます。
“正しさ”を揶揄する者がいます。
そういう者は――皆さんの未来を奪います」
未来を奪う。
未来は、京香にとって受験の未来だ。
だから刺さる。
刺さる言葉ほど、向こうは強い。
榊原の視線が、講堂を滑る。
そして、京香で止まる。
止まっただけで、周囲の視線が追従する。
視線の追従は、槍の隊列。
「京香さん」
名を呼ばれた瞬間、血が引いた。
校内の空気が「彼女が例だ」と決める。
榊原は優しく言った。
「あなたは、記録をつけていますね。
それは良いことです。正しい努力です」
京香は背筋が冷えた。
知られている。
自分の“カルテ”が、見られている。
榊原は続ける。
「ですが……正しい努力は、正しい側に属さなければ、意味を持ちません」
正しい側。
その言葉が一番怖い。
京香は、初めて言葉が勝手に口から出た。
「努力は、誰のものですか」
講堂が静まる。
先生たちが息を呑む。
同級生の何人かが、“面倒”という顔をする。
京香は続けた。声は小さい。
小さい声で十分だ。日常の声量で戦う。
「私の努力は、私の夢のためです。
正しい側のためじゃない。……夢は、所属で決まりません」
榊原は微笑んだ。
微笑みが崩れないのが、恐ろしい。
「素晴らしい。
ならば、その夢を守るために、秩序に従うべきです」
京香の胃が反転しそうになった。
夢を守るために従え。
それは、最も優しい刃。
胸の奥でユッキーの気配が鋭くなる。
(来る)
榊原は声を落とした。講堂全体には聞こえない。
京香だけに届く声。
「あなたの母上も、医療の方ですね。
医療は秩序が必要だ。あなたなら理解できます」
――母。
第36話の通知が蘇る。
言葉の槍は、家庭まで届いている。
京香は、ここで叫びそうになった。
でも叫ばない。
叫べば彼らの土俵になる。
京香は椅子に座ったまま、机の下で指先を握った。
六文銭を握るように。
冷たさが、現実に繋ぎ止める。
(特訓した判断を使う。いま)
胸の奥でユッキーが息を吐く。
(状況を分解しろ。敵の勝ち筋を折る)
京香は、榊原に“否定”で返さなかった。
否定は戦争の言葉になる。
代わりに、質問で返す。
「先生。秩序って、誰が責任を取りますか」
榊原の眉が、ほんのわずかに動いた。
たった一ミリ。
その一ミリが、言葉の速度のほころび。
「責任は、共同体が――」
「共同体って、誰ですか」
榊原は微笑みを保った。
だが、目の奥が一瞬だけ冷えた。
京香は続ける。
医療面接の声で。詰めない。追い詰めない。
ただ、逃げ道を塞ぐ。
「私は看護師になりたい。
責任を取らない秩序には、従えません」
講堂がざわめいた。
誰かが笑いかけ、笑うのをやめる。
笑いが揺れた。
世論の“多数”が一瞬だけ揺れた。
――榊原の負け筋が、ここにある。
言葉で支配できるのは、多数まで。
一人の芯は、折れないときがある。
榊原は、ゆっくり頷いた。
「……良い質問です。
だからこそ、導きが必要なのです」
導き。
命令の言い換え。
拍手が起きた。
今度は先生の誰かが、先に手を叩いた。
正しさが制度へ変わる音。
京香は、爪の先で手のひらに小さな跡をつけた。
痛みで、自分が薄くならないように。
(ユッキー。……次は保健室が危ない。あそこ、記録が集まる)
(……保健室は城の井戸だ。押さえられれば兵糧が絶える)
戦国の比喩が、妙に現代に合ってしまうのが悲しい。
校内は城だ。
城の井戸を取られたら、戦わずに負ける。
講座が終わる。
生徒たちは笑顔で出て行く。
笑顔が正しいほど、恐ろしい。
榊原は最後に言った。
「迷うな。あなたのためだ」
その言葉は、2.26の雪の夜へ繋がっている。
京香は、迷いを捨てないと決めた。
迷いは、人間の証拠だから。




