第36話「志望理由破壊――白衣が“秩序”に奪われる」
朝の湯気が、いつもより薄い気がした。
味噌汁の香りが鼻の奥に届くまで、ワンテンポ遅れる。
京香は、箸を置かない。置いたら負ける。
受験の朝は、戦場の朝と同じだ。
台所の隅で母が白衣を畳んでいる。白い布は、守る色のはずなのに、最近は夢の白が重なる。
雪の白。軍靴の白。命令の白。
「今日、保護者会の資料、配られるんだっけ」
母は何気なく言った。
何気ない言葉が、京香の喉をひっかいた。
(“資料”……)
胸の奥で、ユッキーの気配がわずかに固くなる。
(来る)
京香は、体温計を脇に挟む。
35.8。数字は、嘘をつかない。嘘をつかない数字ほど怖い。
「……大丈夫?」
母が京香の顔を見て眉を寄せる。
その心配が、本当に心配であるほど、京香は胸が苦しくなる。
心配は、監視の入口にもなるからだ。
「受験だよ。模試の復習、今日までにやる」
母は頷く。戦う娘の顔を、医療従事者として見ている。
だけど――その白衣の胸ポケットに、見慣れない紙片が覗いた。
京香の視線に気づいて、母は気まずそうに笑った。
「職場で配られたの。最近、変な団体が医療関係にも……って」
その団体名は口にしない。
口にした瞬間、現実になってしまう気がするから。
母は紙片を引き抜き、テーブルに置いた。
「患者を守るための講座案内」
柔らかいフォント。柔らかい言葉。柔らかい正しさ。
――SHINTOU。
京香は、息を吸い過ぎて咳きそうになった。
胸の奥が冷たくなる。
(ユッキー)
(……見るな、と言うべきだが。見ねばならぬ)
「見るよ。……私、看護師になるんだから」
指先が少し遅れる。紙を掴むのに、ほんの一拍。
それが、魂の遅延だと気づいてしまうのが怖い。
案内文は丁寧だった。
「弱者を守る」「安心の秩序」「正しい判断」
京香が一番ひっかかったのは、そこではない。
末尾の一文だった。
――「迷うな。あなたのためだ」
やさしい命令。
耳の奥で拍手が鳴った気がした。
誰も拍手していないのに。
正しさが拍手をする。正しさは、勝手に増殖する。
母が言う。
「病院って、怖い事件もあるでしょ? 暴力とか。だから、こういうの、必要なんだって」
京香は喉の奥を噛みそうになった。
母の言うことは、間違っていない。
間違っていない正しさほど、刃になる。
「……お母さん」
「うん?」
「“守る”って……誰が決めるの?」
母は一瞬だけ黙り、そして言った。
「患者を守るのは、医療者の仕事。命が最優先」
その瞬間、京香の胸の奥でユッキーが微かに息を漏らした。
戦場の人間の息。ひっそりとした、痛みの息。
(命が最優先。……戦場でも、それは嘘ではない。だが――)
“だが”の先は、言葉にならない。
言葉にならないところに、月香がいた。
京香は、母の白衣を見た。
白衣は守る色。
それがもし、統治の白に奪われたら――京香は夢を失う。
「お母さん。これ、行かないで」
母は驚いた顔をした。
「どうして? あなたも看護師になりたいなら……」
「なりたいからだよ」
京香は自分の声が震えているのを自覚した。
震えは弱さじゃない。体が危険を知っている証拠。
「“正しい判断”って言葉が一番怖い。
医療って、正しさだけじゃない。……患者の怖さを、まず受け止めるんだよ」
母の瞳が揺れた。
母は夜勤の廊下で、何度も恐怖を受け止めてきた人だ。
だから揺れた。
そのとき、スマホが震える。京香のではない。母のスマホ。
通知。
「地域医療安全ネットワーク」――見覚えのないグループ名。
その中に、見覚えのある言葉が踊っていた。
『○○高校の生徒が危険団体に関与』
『京香さん(苗字は伏せられていない)』
母の指が止まる。
白衣を畳む手が、固まる。
京香の胃が冷えた。
志望理由を破壊するとは、こういうことだ。
夢を守るための“医療”が、夢を奪う側に回る。
母がかすれた声で言う。
「……京香。これ、何……?」
京香は息を整えた。
叫ばない。日常を壊しすぎない。
それでも、嘘はつかない。
「何もしてない。……でも、向こうは“言葉で事実”を作る」
ユッキーが胸の奥で低く言った。
(榊原だ)
その名が、今までより現実に近い。
槍より速い言葉。校内から家庭へ、刃が届いた。
京香は母の手を取らない。取れば子どもになる。
代わりに、椅子を引いて母の隣に座る。
「お母さん。私、看護師になりたい。だから――私は、正しい側の暴力に従わない」
母は唇を震わせて、それでも頷いた。
頷きが、拍手ではないことを京香は祈った。
母の白衣は、まだ守る色だった。
しかし、奪いに来ている。
“優しい命令”が、白衣の内側に手を伸ばしている。
京香は心の中でチェックを更新する。
(体温:低い/指先:遅延/味覚:遠い/侵食:家庭へ)
そして、胸の奥へ言った。
(ユッキー。……特訓しよう。判断を早くするやつ)
(……うむ。殺さず止めるための判断。お前の得意分野だ)
京香は笑いそうになって、笑えなかった。
得意分野だと言われても、怖い。
得意分野になってしまうことが、怖い。




