第35話「“実戦”の続き――忠勝が槍を置き、榊原が笑う」
土曜の朝。
京香は参考書を開き、英語長文を一題。
昨日の自分に負けないための最小の勝利を積み上げる。
その積み上げが、統治に対する抵抗でもある。
昼前、スマホに通知が来た。
学校の匿名アカウント。
動画リンク。
『正しい努力のための講座(校内限定)』
映像には、体育館。
壇上に忠勝が立っている。
——いや、忠勝ではない。
忠勝の“姿”を借りた何か。
演出が過ぎる。映像が綺麗すぎる。
コメントが流れる。
『忠勝様かっこいい』
『強い人に従うのが正しい』
『弱者は守られるべき』
京香は胃が冷たくなる。
これは榊原の仕事だ。
言葉の速さで世論を加速し、学校内の“正しさ”を更新していく。
ユッキーが低く言う。
(榊原……)
「動画で統治するの……?」
(戦場では旗だ。現代では動画だ)
忠勝の“強さ=優しさの検査”が、実戦から世論へ拡張される。
検査が制度になる。
制度が校則になる。
校則が、人を薄くする。
京香は動画を止めた。
止めても、侵食は止まらない。
止めるためには、“現場”で止めるしかない。
その夜、学校の北棟。
また白い廊下。
白すぎる白。
扉の前に、榊原が立っていた。
整然とした笑み。
「来たか、京香」
「あなたが……呼んだの?」
榊原は否定しない。
「呼ぶのは言葉だ。君の中の“守りたい”が、君をここへ連れてくる」
言葉が速い。
反論する前に、次の刃が来る。
「君は、優しさの検査に合格した。だから次は——優しさの“利用”を見せる」
扉が開く。
中にいるのは、昨日の男子生徒ではない。
別の生徒。複数。
薄い目。器の目。
だが、完全な器ではない。半端に本人が残っている。
救える。救えると思わせる。
救えない地獄。
榊原が囁く。
「君が助ければ、君は英雄だ。英雄は統治しやすい。君が助けなければ、君は悪だ。悪は排除しやすい」
どちらでも、統治は進む。
美しい罠。
京香は息を吸い、吐いた。
叫ばない。
日常を壊しすぎない。
でも、止める。
京香は床に傘を置く。境界線。
そして、スマホの録音を回す。
言葉の暴力に、証拠で抗う。
「私、英雄になりたくない。看護師になりたいだけ」
榊原が初めて、微かな驚きを見せた。
その驚きは“魅了”に近い。
理解できる相手に出会ったときの、戦略家の目。
「……ならば、君は最も厄介だ」
榊原が指を鳴らす。
器の生徒たちが一斉に動く。
走る。囲む。
刃はない。
でも数が刃だ。
ユッキーが、胸の奥で一歩前に出ようとする。
(京香——)
(出ない。私が選ぶ)
京香は足を引き、腰を落とし、傘を滑らせる。
転ばせない。止める。
止めるだけで、戦闘は映像になる。
一人の足を止め、次の進路を塞ぎ、壁を使って距離を作る。
モップはない。
でも廊下には掲示板がある。
板の前に立てば、相手は“正しさ”の紙を踏む。
踏ませれば、揺れる。
京香は声を出す。短く、医療の声で。
「息をして。自分の身体に戻って。今、あなたはあなた」
器の一人の目が揺れる。
揺れた瞬間、榊原の笑みが深まった。
「ほら。君の優しさは秩序を壊す」
その言葉の向こうで、別の重さが立った。
忠勝が廊下の奥に立っている。
今度は“本人”だ。
鎧の気配が、偽物と違う。
忠勝は槍を持っていない。
それが怖い。
素手の強さは、逃げ道がない。
忠勝が言った。
「榊原。これ以上は“検査”ではない。制度になる。制度は血を吸う」
榊原は笑った。
「制度は血を吸う。だから秩序は続く。——忠勝、お前は優しすぎる」
忠勝が一歩踏み出す。
その一歩は、戦場の終わりの音。
榊原は、京香のほうを見た。
「君に選ばせてやる。京香。君の戦争は二つだ。
受験か。世界か。——同列だと言ったな」
榊原は言葉を速くしない。
あえて遅くする。
遅い言葉は、逃げられない。
「同列なら、どちらも落とせる。落としたとき、人は最も従順になる」
京香は息を吸った。
体温が落ちている。指先が遅い。
でも、判定は上がった。
夢はまだ生きている。
「……落とさない」
榊原の目が細くなる。
忠勝が静かに頷く。
その瞬間、廊下の白が、ほんの少しだけ“普通の白”に戻った。
正しさの膜が一枚剥がれる感覚。
榊原は踵を返し、去り際に言った。
「君は厄介だ。だから面白い。——次は、君の“志望理由”を奪いに行く」
京香の胸が冷える。
志望理由。
夢の核。
そこを狙うのが、榊原の戦い方。
忠勝が京香に言った。
「戦は槍だけではない。言葉が速い。——だが、君は遅くても折れぬ」
京香は答えた。
「折れません。……でも、削れてます」
忠勝は一瞬だけ目を伏せた。
慈悲ではない。事実を受け取る目。
「代償の数値を、記録しろ。戦場では、数字が命を救う」
医療と同じだ。
数字が命を救う。
胸の奥でユッキーが静かに言った。
(……京香、よくやった)
「……うん。ユッキーも」
言った瞬間、自分の声が少し柔らかくなったことに気づく。
怖いのに、近い。
近さが救いになる。
救いが代償になる。
京香は、白い廊下を見上げた。
学校という戦場は、もう始まっている。




