第32話「北棟の白――“助けたい”を踏み抜く実戦」
夕方、塾の自習室。
京香は英語長文の設問を潰していた。正答率が低くても、解き方は改善できる。数字は改善できる。怪異は……まだ分からない。
机の端に貼った付箋が揺れた。
『志望理由:人を助けたい/夜に働く母を見た』
『苦手:英語長文/毎日1題』
『体温:35.9→?』
最後の一行だけが、受験の顔をしていない。
塾を出ると、校舎は夜の顔になっていた。
窓の黒。階段の白。
白すぎる白が、夢に似る。
北棟。旧視聴覚室。
鍵は開いていた。開けたのは誰か。
誰かが“検査”の舞台を整えている。
廊下の掲示板に、紙が追加されていた。
『正しい側に従え』
『逆らう者は病だ』
『治療が必要だ』
“治療”。
医療の言葉が、支配の言葉に変わる。
京香の胸がむかつくほど冷えた。
旧視聴覚室の扉を開けた瞬間、空気が白くなる。
プロジェクターのスクリーンが垂れ下がり、白い布がそこに“壁”を作っている。
布の裏で、誰かが息をしていた。
「……和久、京香」
声が若い。
だが喉の奥が古い。
西尾の署名に似ている。
けれど西尾ほど割れていない。
“均された無念”。
布が揺れ、男子生徒が出てきた。
制服。顔色が薄い。目が薄い。
器の目。だが、そこに何かが“入っている”。
手には、包帯。
腕に赤い染み。
わざと切った。わざと血を出した。
京香の喉が締まる。止血したい。
でも近づけば終わる。
“助けたい地獄”。
西尾の技の変奏。
それを誰かが学び、洗練している。
男子は、息を吐くように言った。
「助けてよ。君は看護師になりたいんだろ」
言葉が刃になる瞬間、京香は理解した。
これは忠勝の“検査”だ。
優しさを踏ませる土俵。
踏めば転ぶ。踏まねば人が死ぬ。
京香は一歩も進まず、カバンからタオルを投げた。
距離を保ち、声だけで指示を出す。
「それ、押さえて! 上に巻いて! 強く! 息を吐いて!」
男子の目が揺れる。
ほんの一瞬だけ“本人”が戻る。
「……え、俺……?」
だが次の瞬間、背後から拍手がした。
誰もいないのに。
正しさの音。
男子の目が再び薄くなる。
“従う”の目。
京香は息を吸って、床に傘を置いた。
境界線。
近づかず、止める。
だが相手が踏み込めば、こっちの線は意味を失う。
——その瞬間、ドン、と床が鳴った。
視聴覚室の奥、暗がりから忠勝が現れた。
本当にそこにいた。
検査官が現場に立つ。
忠勝は、微動だにせず言った。
「君の優しさは、相手を救うか。相手を甘やかすか。——見せよ」
男子が走った。
刃物はない。だが、体当たりの勢いが刃になる。
窓際へ京香を押しつける気だ。
(来る)
ユッキーの声。
京香は足を引き、腰を落とす。
傘を滑らせ、男子の足の進路を塞ぐ。
転ばせない。止める。
——止めるだけで、戦闘になる。
男子の足が止まり、勢いが失速する。
その一瞬、京香は距離を詰めず、もう一枚タオルを投げた。
「押さえて! 生きたいなら、押さえて!」
男子の目が揺れる。
泣きそうな顔が一瞬浮かぶ。
“生きたい”。
人間の言葉だ。
だが、拍手がまた鳴る。
正しさが、人間を薄くする。
忠勝が歩み寄らないまま、低く言った。
「迷うな」
その声が命令になる。
「——従え」
忠勝ではない。
忠勝の口から出ているのに、質が違う。
僧衣の影が、忠勝の背後に重なった気がした。
天海の気配が、校舎の白に溶ける。
京香の胃がひっくり返る。
忠勝は“個”だ。だが、天海の思想がその上に薄く膜を張る。
四天王は道具ではない。
けれど、思想は接続できる。
京香は歯を食いしばり、叫ばない声で言った。
(ユッキー、出ないで。私がやる)
(……承知)
京香は、自分の声で、自分の倫理で男子に言った。
「私、あなたを助けたい。でも、あなたが誰かに操られてるなら——その“操り”を止めたい」
男子の目が揺れる。
その揺れが“優しさの検査”の答えだと、京香は直感した。
忠勝は、初めて小さく頷いた。
「よい。君の優しさは、相手に媚びぬ」
そして、忠勝が一歩だけ踏み出した。
床が鳴る。
その一歩は、槍の突きより重い。
忠勝は男子の後ろに立ち、掌を軽く置いた。
殴らない。押さえつけない。
ただ“重さ”だけを渡す。
男子は崩れ落ちた。
器の目が、ふっと戻る。
「……ごめん……」
涙が出た。
京香は近づかず、でも声を柔らかくした。
「大丈夫。……今、戻ってる。息して」
忠勝は京香へ言った。
「合格だ」
合格。
医療でも受験でも、合格は次の戦場の始まりだ。
廊下の掲示板の紙が、誰にも触れられていないのに、ひらりと落ちた。
紙が落ちる音は小さい。
けれど、校則が一枚剥がれる音だった。




