第3話「槍を持たない武将」
“来る”――と言ったあと、幸村の気配が消えたわけではない。
むしろ逆だ。部屋の空気が張り詰め、見えない糸が京香の皮膚を撫でていく。
影が濃くなる。
京香の視界の隅で、黒が“黒以外”になろうとしている。
その瞬間、机の上の問題集のページが、ばさりとめくれた。
「っ……!」
京香は反射的に押さえた。紙の端が指に当たる。現実の硬さ。
だが、めくられたページは偶然じゃなかった。印刷の太字が目に刺さる。
――【倫理】。
看護師を目指すなら避けて通れない言葉。
人の命に触れる資格。触れてはいけない線。
そのページが、見えない力で“開かされた”。
背中が冷える。
京香が硬貨を握り直したとき、幸村の気配が一段低く沈んだ。
「……目を逸らすな」
命令口調ではない。
戦場で味方を守るときの声だ。
「見えないのに?」
「見えぬものほど、間合いが読めぬ」
京香は唇を噛んだ。
見えない相手と間合い。そんなもの、どうやって――。
答えはすぐ来た。
部屋の隅の影が、歪んだ。
歪みの中心に、白いものが瞬いた。
白い顔――のように見えた。
笑っているのに、喜んでいない。
その矛盾が、吐き気を呼ぶ。
京香は椅子を蹴って下がった。
椅子が倒れる音が、やけに大きい。
白い“何か”が、床すれすれに滑った。
それは走るのではない。滑る。人の足ではない動き。
京香の膝が笑いそうになる。
それでも、目は逸らさない。
幸村の気配が前へ出た。
見えないのに、彼が“前に立った”のが分かる。
畳が、沈んだ。
「――来る」
同じ言葉でも、今度は意味が違う。
これは予告ではない。指示だ。
京香は机の横にあった“モノ”を掴んだ。
長いもの。棒。
物干し竿ではない。掃除用のフローリングワイパー。
(槍、じゃない。けど――)
握ると軽い。
軽すぎる。
戦える重みじゃない。
白い何かが、京香へ滑る。
その瞬間、京香の腕が勝手に動いた。
いや――動いたのは京香の腕なのに、重心の置き方が京香じゃない。
足の運びが、体育の授業のそれじゃない。
フローリングワイパーが、床を叩いた。
叩くのではなく、突いた。
狙いは顔じゃない。
床。
滑ってくる軌道の“先”。
そこへ棒を置いて、相手の進路を塞ぐ。
白い何かは、その棒にぶつかった瞬間、音もなく“ほどけた”。
霧が崩れるように、影へ引き戻される。
京香の喉が鳴った。
「……今の、私?」
「お前だ」
幸村の声が、少しだけ苦い。
「だが、お前の体は、お前のものだ。俺は勝手に奪えぬ」
京香はその言葉に救われそうになって、同時に怖くなる。
(奪えない? じゃあ、奪える時が来るってこと?)
問いかける前に、温度が戻った。
影が、すっと薄くなる。
笑い声も消える。まるで“試しただけ”みたいに。
京香は床にへたり込んだ。
涙が出そうなのに、出ない。代わりに手が震える。
「……ねえ、幸村」
「うむ」
「あなた、戦ってた人だよね」
返事は少し遅れた。
「……そうだ」
京香は硬貨を見る。六つの円。渡し賃。
死の匂いが、まだ部屋にある。
「……私、戦うの嫌いなんだけど」
「嫌いでよい」
即答だった。
「嫌いな者が、戦を望まぬ者が――最後に人を救うことがある」
京香は息を止めた。
それはきれいごとではなかった。
“知っている者”の声だった。
その夜、京香はまともに勉強できなかった。
だが、眠る前に問題集の余白へ、六つの円を描いた。
なぜ描いたのか分からない。
ただ、描かなければいけない気がした。
翌朝。
京香は目の下に薄いクマを作って登校した。
学校の昇降口で、女子が二人、ひそひそと話している。
「ねえ、昨日……女子トイレ、変じゃなかった?」
「わかる。なんか、笑い声みたいなの聞こえた……」
京香の足が、止まった。
“来る”のは、部屋だけじゃない。
日常の中へ、静かに侵食してくる。
京香は、胸の奥で決める。
(……私は、受験に勝つ。勝たないと、守れない)
看護師になる。
そのために戦う。
その誓いが、今日の京香を立たせた。




