第29話「月香の“思想を知る理由”――雪の夜の合図」
休日。京香は図書館ではなく家の机で英語長文を一題やった。
正答率は上がらない。けれど、やった分だけ未来が守られる。
胸の奥は静かだ。静かでいることが配慮だと分かる。
それが嬉しくて、怖い。
シャーペンを落とす。拾うのに一拍遅れる。
指先の遅延が確定する。メモを更新する。
『体温−0.6/指先×(遅延)/味覚△/夢:危険』
“夢:危険”を見た瞬間、視界が白くなった。
雪の野。
月香がいる。今度は背中だけではない。横顔がほんの少し見える。
見えるだけで胸が痛い。“この人はもう戻れない”と分かってしまうから。
月香の口は動かない。けれど感覚が流れ込む。
——私は天海の言葉を知っている。
——天海は秩序を語る前に、恐怖を見た。
——恐怖を見た者ほど、自由を嫌う。
京香は息を呑んだ。思想を知る理由。月香は敵の思想の根に触れている。
雪の向こうで僧衣の影が歩く。
その傍に、血に濡れた槍の影がある。真田の槍ではない。徳川の槍。
家康の影が、まだ生きようとしている。
月香の肩が震える。恐怖ではない。決意の震え。
——私は二・二六を止めた。
——でも、家康たちの封印には失敗した。
——それは、私の命の代償でも足りなかった。
命の代償でも足りない。不可逆。例外なし。
月香の横顔が、少しだけ苦しそうに歪む。
その理由が、今度ははっきり伝わる。
——私はユッキーと、同じ罪を背負った。
——背負ったからこそ、あなたに同じ背負い方をさせたくない。
京香は夢の中で言った。
「私は同じ背負い方はしない。私の背負い方で背負う」
月香は頷かない。肯定もしない。ただ託す。
「ユッキーを責めない。……でも、私の未来は譲らない」
雪の匂いが少し薄まった。夢が崩れる前に、最後の合図が来る。
——敵は“個”だ。
——四天王は、それぞれ違う救いを求めている。
目が覚める。頬が濡れている。涙は体温を奪う。
体温計を挟む。35.8。
京香は硬貨を握りしめ、胸の奥へ言った。
(ユッキー。月香は、あなたを責めてない)
(……俺が、俺を責める)
「じゃあ、私があなたを責めない分、私の夢を守って」
沈黙。
そして静かに返る。
(承知)




