第27話「榊原の影――“槍より速い言葉”」
放課後、京香は塾へ行く前に体育館裏で傘を振った。
振るのではない。線を引く。越えるな、と地面に境界を作る。“殺さず止める”戦い方を身体に覚えさせる。
(ユッキー、見てて。口だけ)
(……うむ)
(姿勢、これで合ってる?)
(腰が高い。息を吐け。恐れるな)
声が近いと心拍が整う。それが悔しい。
でも助かる。
校舎へ戻る途中、階段の踊り場であの男子が待っていた。昼の“音にならない笑い”の男。
近づくにつれて分かる。笑いが西尾の署名とは違う。西尾には無念のひび割れがある。この男には割れ目がない。整いすぎている。
「京香さん。あなたの“境界線”は美しい」
言葉が丁寧すぎる。丁寧さが刃を隠す。
「あなたは秩序を壊す。だから、導く必要がある」
優しい語彙。だが言い方が命令の形をしている。
男が一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。
軍靴の音が確かに聞こえた。ここは踊り場、戦場ではない。それでも戦場の圧が立つ。
男の瞳が薄くなる。“器”の目とは違う。器は空っぽにされる。この瞳は別の意思で満ちている。
「榊原康政」
男が名乗った。歴史の名。四天王。
背中が冷えた。
(ユッキー……)
(……榊原か)
胸の奥が低く沈む。怒りではない。因縁の重さ。
榊原は微笑んだまま言う。
「真田幸村。あなたがまだいるとは。——未練か、役目か」
敵は、胸の奥の存在を前提として知っている。
「器が自我を持つのは厄介だ。だが——君は優しすぎる」
その断定が怖い。“優しさ”を弱点として言語化される怖さ。
榊原は言葉を一段、鋭くした。
「従え」
たった一語で、階段の空気が白くなる。白すぎる白。刃が冴える白。
西尾の署名とは違う白だ。統治の白。
京香は叫ばない。逃げない。
一歩引いて距離を取る。傘を床に置き、境界線を作る。
「これ以上、近づかないで」
榊原は笑った。音にならない笑いではない。“整然とした笑い”。恐ろしいほど正しい笑い。
「境界線は、秩序に従うためにある」
踏み込まれた瞬間、京香は傘を滑らせ、相手の足首の進路を塞いだ。転ばせない。止める。榊原の靴先が止まる。
その一瞬、榊原の目に別の感情が走った。驚き。——そして懐かしさ。
「……その止め方。卑怯ではない。——嫌いじゃない」
敵が、褒めた。
榊原は踵を返し、階段を上がって消えた。去り際に言葉だけ残す。
「君が選ぶほど、君は削れる。——それでも選べるか、京香」
指先が冷え、遅れる。息が浅くなる。
チェック項目が増える予感がした。




