第26話「学校という戦場――掲示板が“校則”になる日」
朝、京香は英語長文を一題解いてから登校した。
昨日の自分に負けないための、最小の勝利。
机の引き出しには白い便箋がある。月香の残像が残したもの。触れると夢の匂いがする気がして、まだ触らない。代わりに体温計を挟んだ。35.9。数字は静かに刃になる。
校門をくぐった瞬間、空気がよそよそしい。
誰かひとりの悪意ではなく、多数の無言。廊下の壁に貼られた紙——『秩序を乱す者を許すな』が、掲示物ではなく校則のように作用している。
生徒がそれを読んで頷くたび、頷かない者が異物になる。
愛美が追いつき、小声で言った。
「……京香、昨日からさ、変な噂。先生にも届いてるって」
「……何の?」
「“危ない団体に関わってる”とか、“反社会的”とか……」
喉が冷える。言葉は人を殴れる。殴るのに手がいらない。
胸の奥がざわついた。
(ユッキー)
(……うむ)
(私、何もしてない)
(“何もしてない”者を、最も叩けるのが世だ)
その言葉は苦い。戦場を知る者の、現代への戸惑いが混じっている。
昼休み、担任に呼ばれた。
職員室前の白い廊下。白すぎる白が、微かに夢に似る。
「和久さん。最近、変な集会に行ったって本当?」
責める声ではない。心配の声だ。
それが京香には痛い。“心配”は監視の入口になることがある。
「……行ってません」
嘘ではない。パンフに触れただけだ。
けれど言葉は、裁判より先に結論を作る。
担任は机の上のパンフを示した。SHINTOUのロゴ。昨日まで遠かった敵が、いま机の上に座っている。
「こういうの、関わらないほうがいい。君は受験生だろ?」
受験生。
その言葉が京香を救う。世界を救うより、まず自分の未来を守る——その正当性がここにある。
窓の外で拍手がした気がした。誰も拍手していないのに、確かに聞こえる。正しさの音。正しさは命令へ変わる前触れだ。
京香は正面から言った。
「先生。私、看護師になりたいんです。だから、関わりません。——でも、私の名前を噂で決めないでください」
声は震えている。震えているのに、逃げていない。
担任は少し驚いた顔をし、パンフを引き出しにしまった。
「……分かった。君を信じる。だが、気をつけろ」
“信じる”が胸に落ちる。
京香の思想は、信じることでしか成立しない。だから信じられたとき、涙が出そうになる。
職員室を出た。廊下の突き当たり、白い掲示板の前に知らない男子が立っていた。制服。だが立ち姿が妙に整然としている。軍靴の足音が聞こえそうな静けさ。
男子が京香を見て、小さく笑った。
——音にならない笑い。
指先が冷えた。




