第25話「 “正しい側”の暴力――そして次の扉」
月曜。京香は朝、英語長文を一題やった。
正解率は低い。けれど、やったという事実が京香を守る。
夢に従うという選択を、毎日更新する。
学校の廊下。窓の外は曇り。雪の匂いはない。
それでも空気が薄く冷たい。
掲示板の前に人が集まっている。
誰かが紙を貼ったらしい。
『秩序を乱す者を許すな』
『反対者=敵』
字が上手い。印刷ではなく手書き。
手書きのほうが怖い。誰かが“自発的に”染まっている証拠だから。
愛美が京香を見て、怯えたように言った。
「京香……名前、出てた」
紙の端に、小さく書いてある。
『京香=フォーラムで逆らった』
事実じゃない。
でも言葉が事実になる。
放課後、校門の外にSHINTOUのスーツがいた。
笑顔でチラシを配り、学生に声をかける。
「不安はありませんか? 私たちはあなたの味方です」
声が優しい。
優しいほど、命令へ変わる予感がする。
通り過ぎようとした瞬間、スーツの男が一歩近づいた。
周囲には聞こえない声量で言う。
「京香さん。あなたは正しい側に立てます」
名前を知っている。監視。組織。
胸の奥が鋭くなる。
(近い)
男は続ける。
「あなたの優しさは素晴らしい。だから、秩序のために使うべきです」
優しさを道具化する言葉。
腹の底が冷たくなる。
男の声が、柔らかいまま命令形に変わった。
「——従いなさい」
視界の端に僧衣の影が重なる。天海の気配。優しい命令。
男の目が一瞬だけ薄くなった。
器の目。操られているのに正しい顔をしている。
京香は走らない。逃げると追われる。
一歩だけ前に出る。医療現場でパニックの人に近づくときの、あの一歩。
「私は従いません」
男が驚いたように笑う。音にならない笑いが滲む。
「あなたも、そうなる。正しい側へ」
京香は呼吸を整え、言った。
「正しい側、って言葉が一番怖い」
笑顔が少しだけ崩れた。
その崩れの向こうに、西尾の気配が一瞬だけ覗く。笑いが音にならない。白い刃が冴える。
——西尾はまだいる。根が残っている。
京香は胸の奥へ小さく言った。
(貸して。……一瞬)
(……承知)
重心が落ちる。姿勢が変わる。
でも声は京香のまま。奪わない。貸すだけ。
京香は男の手首を掴まない。掴めば暴力になる。
代わりに傘を地面へ置いた。男と自分の間に線を引く。境界線。
「これ以上近づかないで」
男の足が止まる。
止まった瞬間、目が一瞬だけ戻った。正気。
「……え、俺……何して……」
京香は短く言う。
「大丈夫。深呼吸して。今、あなたはあなたの身体に戻ってる」
男が息を吸う。ほんの一秒。
その一秒が命を救うことがある。
だが背後で、拍手が聞こえた。
誰も拍手していないのに。正しさの音。
男の目が再び薄くなる。天海の声が重なる。
『従え。あなたのためだ』
京香は歯を食いしばる。
救えない瞬間がある。
それでも——止める。
京香は叫ばない。叫べば日常が壊れる。
代わりにスマホを取り出し、録音ボタンを押した。
言葉の暴力に、言葉で抗う。
男は踵を返し、群れへ戻っていった。
笑顔に戻り、チラシを配り続ける。正しい顔のまま。
京香はその場に立ち尽くし、指先の冷えを感じた。
体温がもう一段落ちた気がする。
(代償だ)
胸の奥が苦い声で言った。
(……近づいている)
京香は引き出しに入れた月香の紙を思い出す。
嘘をつくな。兆候は記録しろ。
メモを更新する。
『体温−0.6/指先×/夢:危険/侵食:現実へ』
最後に一行、書いた。
『次の扉:学校』
日常の中心が戦場になる。
「ユッキー。次は、学校で戦う」
(……うむ)
「でも私は、夢も捨てない」
冷えと温かさが同居する。
その矛盾が、京香の物語だ。




