第23話「天海の言葉――優しい命令」
夜。京香は過去問を開いた。
数学の小問集合。点が取れるところで点を取る。受験も戦いなら、無駄な突撃はしない。
母からLINEが来る。
『今日もおつかれ。無理すんな。夜勤行ってくるね』
京香は「いってらっしゃい」と返し、スマホを伏せた。
母の夜勤を思うと眠れなくなる。眠れないのは受験にも怪異にも不利だ。
指先の感覚が少し遅い。
シャーペンを落とす。拾うのに一拍遅れる。
メモを更新する。
『体温−0.4/指先×(遅延)/夢:侵入増/味覚:甘さ△』
“×”を付けた瞬間、胸の奥の幸村が低く言った。
(……限界に近い)
(まだ、回数は少ない)
(回数ではない。質だ)
(質?)
(お前の魂が、冷えている)
魂が冷える。比喩のはずなのに、背筋が冷える。
スマホが震えた。知らない番号。
今度は動画リンク。
『あなたは正しい側に立てます(続き)』
触れたくない。けれど、触れないままでも言葉は侵食する。
京香は呼吸を整え、再生した。
画面に出るのはSHINTOU代表の穏やかな顔。柔らかな声。
「若者は不安です。だから争い、傷つけ合う。
でも——秩序があれば救われます」
コメントが流れる。
『正しい!』
『反対するやつは敵』
『秩序に従え』
胃が冷たくなる。
“反対するやつは敵”——言葉が刃だ。
代表は続ける。
「自由は美しい。ですが自由は弱者を置き去りにします。
だから、強い者が導く必要があります」
笑って言う。
「——迷うな」
その瞬間、声の質が変わった。柔らかい言葉が命令形になる。
「——従え」
スマホの画面が一瞬だけ暗くなった。
暗い画面に、僧衣の影が重なる。天海の気配。
京香は電源を落とした。
心拍が速い。けれど名前を呼ぶと、少しだけ整う。
「ユッキー」
(……うむ)
京香は言った。
「私は従わない。従うなら、自分の夢に従う」
幸村が小さく息をした。
戦場の人間が受験生の夢に息をするのが不思議で、京香は少しだけ笑いそうになる。
(その選択が、天海の恐怖だ)
「どういう意味?」
(人を信じる選択は、統治を壊す)
京香は暗くなった画面を見つめ、静かに言った。
「信じるのは怖い。でも、看護師は信じないと仕事にならない」
患者が生きたいと言ったら信じる。
痛いと言ったら信じる。
それが医療。
それが京香の思想だ。
電源を落としたスマホがもう一度震えた。短いメッセージ。
『従え。あなたのためだ』
“あなたのため”——最も優しい刃。
京香は削除せず、スクショを撮った。証拠として残す。兆候を記録する。
そして過去問に戻った。
一問だけ解く。日常を取り返すために。




