第22話「白い刃の署名(西尾の技)――“助けたい地獄””」
翌朝、京香は英語の長文を一題だけ解いた。
模試E判定を、ただの数字に戻すために。数字は改善できる。怪異は——まだ分からない。
学校の昼休み、愛美は少し距離を置いていた。
昨日の女子トイレ事件の“何か”が、彼女の中で形になりつつあるのが分かる。
京香は責めない。知らないほうが幸せなこともある。
保健室で体温計を借りた。
36.0。いつもより低い。
誤差と言い訳できる数字ほど怖い。
メモに書く。
『体温−0.4/指先△/夢:増』
その文字を見た瞬間、胸の奥で幸村の気配がざわついた。
(……削れている)
(まだ、いける)
(“まだ”が一番危うい)
声は珍しく強い。強いのに、京香の心拍が少し整う。
怖いはずなのに呼吸が落ち着く。——その“近さ”を、京香は気づかないふりをした。
放課後、京香は図書室へ逃げた。
静かな白い空間。本棚の背表紙の白が整然と並ぶ。
その白が、急に“白すぎる”白へ変わった。
——音にならない笑い。
背中が冷える。
西尾の署名。
司書カウンターの横で、男子生徒が立っていた。
制服。薄い表情。手はポケットの中。
(カッター)
医療の現場で刃物は救急の匂いだ。京香の脳が先に判断した。
男子がゆっくり歩いてくる。
目が笑っていない。
「……真田」
声が若いのに古い。西尾の混じる声。
京香は走らない。走ると追われる。
代わりに本棚の角へ滑り、掃除用カートを引き寄せる。雑巾、スプレー、長い柄のモップ。
京香はモップを掴んだ。
白い図書室で刃が冴えるなら、こちらも白い棒で止める。
男子が刃を出す。
カチ。
その音だけが現実だった。
「動かないで」
男子が笑う。音にならない笑いが口角に滲む。
「助けたいんだろ?」
その言葉が刺さった。京香の倫理を逆手に取る。
「助けたければ、近づけ」
西尾はそう言って、男子の腕を自分で切った。
血が落ちる。白い床に赤。
京香の喉が凍る。
止血したい。助けたい。
でも近づけば殺される。
——“助けたい地獄”。
これが西尾の技だ。
京香は看護師志望として、別の選択をした。
近づかない。けれど助ける。
カートの中からタオルを投げた。タオルは男子の腕に当たり、血を吸う。
「それで押さえて!」
男子の目が一瞬だけ揺れた。
——正気が戻る。
「……え、俺……?」
その瞬間、西尾が笑う。音にならない笑いが濃くなる。
「ほら。優しさは秩序を壊す」
——天海の言葉に似ていた。
西尾はただの暴走じゃない。思想に接続されている。
京香はモップの柄を床へ置き、男子の進路を塞ぐ。
同時に出口へ視線を走らせ、近くの生徒に小さく叫んだ。
「先生! 保健室!」
声量は最小。日常を壊しすぎないための声。
胸の奥で、幸村が低く言った。
(よくやった)
その一言で京香の冷えが一瞬だけ薄まった。
呼び名が変わったからだと、京香は気づく。
(ユッキー)
(……うむ)
男子は倒れた。血を失って。
救急車が来た。
京香は救急隊が来るまで、距離を保ったまま指示を出し続けた。
“助ける側”を捨てないために。
運ばれる瞬間、男子の目が京香を捉え、涙を溜めた。
「……ありがとう」
その声は男子本人の声だった。
京香の胸が痛い。
救えた。
でも次も救えるとは限らない。
図書室の隅で、音にならない笑いが遠ざかった。




