第21話「京香の夢(雪の夜、二・二六の輪郭)」
模試の結果は、机の上に置いた瞬間から重い。
紙は薄いのに、胸骨の裏が圧迫される。
京香は封筒を開け、判定の欄を見た。
「……E」
声にすると現実になる。現実は逃げない。
看護師になりたい。
母の夜勤を見てきたから——人が倒れる夜に、仕事が終わらない世界があるのを知っているから。
京香は悔しさを飲み込み、赤ペンを持った。
Eは終わりじゃない。分析の始まりだ。
机の横に、白い付箋を貼る。
『苦手:英語長文/対策:毎日1題』
『睡眠:6.5h→7h』
『冷え:指先チェック』
最後の一行は、受験の項目の顔をして、別の戦場のメモになった。
その夜、京香は“チェック”を始めた。
看護師志望の自分が、身体の変化を見逃さないための儀式。
①体温:平熱?(いつもより低い気がする)
②指先の感覚:鉛筆が滑る?(少し)
③味覚:甘さが遠い?(まだ平気)
④夢:侵入頻度(増えてる)
最後の項目を書いた瞬間、胸の奥でユッキーの気配がかすかに動いた。
(……見るな)
(見る。私が決めた)
京香は強く言ったつもりだったが、声が少し震えた。
震えは弱さじゃない。体が危険を知っている証拠だ。
眠りに落ちる直前、部屋が一瞬だけ“白く”なった。
蛍光灯の白ではない。雪の白。
京香は目を開いた。
開いた場所は、夢の中だった。
雪。
息が白い。
遠くで火が燃えている。
そして——拍手が聞こえる。
雪の野で拍手なんてありえないのに、確かに聞こえる。熱い拍手。
拍手が、だんだん足音に変わる。
規律正しい軍靴。
雪の中に月香が立っている。背中だけ。振り返らない。
京香は近づく。足が雪に沈み、体温が奪われる。
「……月香」
名を呼ぶと、胸の奥が痛む。
繋がる痛み。
月香は雪の向こうを指した。
そこに、制服姿の若者たちがいる。銃。叫び。
昭和の匂いがした。
(……二・二六)
歴史の授業で聞いた事件が、雪の匂いと一緒に肺へ入る。
雪の向こうで、僧衣の影が歩く。
声は優しい。
『秩序は、救いです。若者よ、迷うな』
優しい言葉が、命令に変わる。
『——従え』
その一言で、若者たちの眼が薄くなる。
“中身が薄い”あの感じ。
現代の男子生徒と同じだと、京香は直感した。
月香の背中が、少しだけ京香へ傾いた。
言葉はない。
でも伝わる。
——私は止めた。
——でも、封じきれなかった。
雪の中に、音にならない笑いが滲む。
西尾の笑いだ。
白い世界で刃が冴える。
署名は、夢の中でも同じだった。
京香は震えたまま、月香の背中へ言った。
「……私、世界を救いたくない」
月香は振り返らない。否定もしない。
「でも、日常を壊されたくない。夢を壊されたくない。……だから止める」
月香の背中が、ほんの少しだけ軽くなった。
目が覚める。自室。
枕が濡れている。涙だった。
(ユッキー、見ちゃった)
(……見たか)
(2.26……月香……あなた……)
(俺は、止められなかった)
京香は付箋の「冷え:指先チェック」を指で押さえた。
「……じゃあ私は、止める側になる」
宣言は小さい。
でも、小さい宣言が侵食への境界線になる。




