第2話「見えない同居人」
夜の雨は、音が近い。
窓の外で降っているはずなのに、京香の部屋では雨音が壁紙のすぐ裏にあるみたいに聞こえる。
耳が、勝手に音を拾ってしまう。
怖いからではなく――怖いのに、確かめたくなるからだ。
京香は座り込んだまま、硬貨を握り締めていた。
掌の冷たさは薄れない。
いや、冷たいというより、温度の基準がずれていく感覚がある。
自分の体温が「本来こうだったはず」という記憶だけが残って、今の温度がそれを追い越していく。
机の上に置いた問題集の文字が、まだぼやけている。
(……模試、なのに)
現実を呼び戻すために、京香は息を吸った。
吸った空気が、肺の中で冷たい。
畳の沈み――そこに誰かが立っている痕跡は、まだ消えていない。
見えないのに、いる。
声は確かに、そこから聞こえた。
「……真田」
それが名前なのか、姓なのか、京香には分からない。
でも声は、その一言を出した瞬間だけほんの少し揺れた。
強がりが剥がれるときの揺れ。
人間が、自分の大事なものに触れるときの揺れ。
京香は喉を鳴らした。
「……真田、さん?」
返事は、すぐにはない。
沈黙の中で、京香は気づく。
この沈黙は、無視ではない。
言葉を探している沈黙だ。
そして、声が返ってきた。
「……さん、とは何だ」
京香は思わず瞬きした。
質問が、妙に現代的ではないのに、会話として成立している。
「えっと……敬語、みたいな……」
「けいご……?」
その言い方が、初めて聞く単語を噛み砕いている感じで、京香は一瞬だけ緊張が緩んだ。
緩んだ瞬間、怖さが戻ってくる。
緩んだら、現実として受け止めてしまうから。
(……本当に、いるんだ)
京香は、意識的に机の上のシャーペンを握った。
硬い。冷たい。
――現実の硬さ。
「……あなたは、どこから来たんですか」
京香は言ってから、しまったと思った。
質問が大きすぎる。
相手が人間であっても、言いづらい。
けれど、声は意外なほど静かに答えた。
「……分からぬ」
その一言が、京香の胸に刺さった。
怖いのは幽霊だからじゃない。
“分からない”という言葉が、人間の本音だからだ。
京香は、掌の硬貨を見た。
六つの円が、机のライトに照らされて鈍く光っている。
「……じゃあ、どうしてここに」
「……それも分からぬ」
京香は、唇を噛んだ。
不意に、胸の奥がむずむずした。
怒りではない。
どうしようもない焦りだ。
「……明日、模試なんです」
口をついて出た。
自分でも驚いた。
たぶん京香は、怖いときほど「普通の話」をしたくなる。
病室でもそうだった。点滴の針が刺さる瞬間、人は大きなことより小さな話を欲しがる。
沈黙。
それから、声が小さく言った。
「……もしょ」
「模試。試験みたいなものです。大学、行きたいので」
「……学ぶため、か」
その言葉の響きに、京香はわずかに首を傾げた。
学ぶことを、尊いものとして捉えている。
それが“古い人”の言い方に聞こえる。
「……看護師になりたいんです」
言ってから、京香はまた怖くなった。
この見えない相手に、自分の夢を言う必要があったのか分からない。
でも、声は否定しなかった。
「……傷を癒やす者、か」
「……はい。人を傷つけるの、嫌いなんです。喧嘩とか」
京香は、畳の沈みに向かって言う。
相手がそこにいると分かっているから。
すると、呼吸が少しだけ近くなった気がした。
「……戦は、嫌いか」
京香は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
いま、彼は“戦”と言った。
それは比喩じゃない。
語彙の選び方が、比喩ではない。
「……嫌いです」
京香は答える。
その答えに、嘘はない。
沈黙が落ちた。
暖房の風の音だけが、やけに現代的に聞こえる。
その現代の音が、逆に部屋の中の“異物”を際立たせる。
京香は、ゆっくり立ち上がった。
怖い。
でも、目を逸らさない。
京香は机の上の硬貨を、シャーペンの先でつついた。
カン、と乾いた音が鳴る。
その音に合わせるように、畳の沈みがわずかに揺れた。
――揺れる、というのが正しい。
そこにいる何かが、少しだけ体勢を変えたみたいに。
京香は、背筋を伸ばした。
「……あなた、悪いものですか」
直球すぎる質問。
でも、ここを避けたら一晩眠れない。
返事が来るまでの数秒が、長い。
雨音が、ぶ厚い壁になる。
やがて、声が言った。
「……悪いかどうかなど、俺にも分からぬ」
京香は息を止めた。
正直すぎる。
そして、たぶん誠実だ。
「だが」
声が続ける。
「……お前を害したいとは思わぬ」
その言葉は、京香の胸の奥に、すっと入った。
怖さが消えたわけではない。
でも、恐怖の形が変わった。
(この人は、嘘をつかない)
少なくとも、いまこの瞬間は。
「……ねえ」
京香は、少しだけ声を柔らかくした。
「見えないんです。あなた」
「……見えぬのか」
「見えません。でも……いるのは分かる」
畳の沈みの方向に、京香は視線を固定する。
そこに顔があると信じて。
「……名前、教えてください」
呼吸が止まる気配がした。
それは恐怖ではなく、迷いの停止だ。
名を名乗るという行為が、彼にとって重いのだと京香は直感した。
沈黙。
沈黙が長くなるほど、京香の心臓が速くなる。
それでも、京香は引かなかった。
やがて――
「……幸村」
その名は、雨音の向こうから届いたみたいに、遠く、しかし確かだった。
京香は目を見開いた。
「……ゆきむら」
口に出すと、なぜか喉が痛くなった。
歴史の教科書で見た名前。
“真田幸村”という語感が、脳の中で勝手に完成してしまう。
けれど、京香はそこまで言わなかった。
言った瞬間に、夢が現実になる気がしたから。
「……幸村、さん?」
「……さん、はよせ」
少しだけ不機嫌な声。
なのに、その不機嫌さが人間らしくて、京香の口元がわずかに緩んだ。
「じゃあ……幸村」
「……うむ」
その短い肯定が、京香の胸に奇妙な安心を落とした。
名前を呼べるだけで、世界は少しだけ整う。
しかし――整いすぎると、怖い。
京香は思い出した。
この人は、武具がないと言った。
戦が嫌いかと聞いた。
つまり彼の世界には、戦が“普通”だった。
「……幸村。あなたは、何をしたいの」
沈黙。
それから、声が低く言った。
「……分からぬ」
京香の心臓が、また跳ねた。
「だが……」
声が少しだけ硬くなる。
誰かの名を噛み殺すような音が混じる。
「……徳川が、動いている気がする」
京香は、背中に冷たいものが這うのを感じた。
(徳川……って)
歴史の、徳川。
まさか。
京香は言葉を探した。
探しながら、自分が少しだけ怒っていることに気づく。
「……ねえ、幸村」
声が返事をする前に、京香は続けた。
「私、明日模試なんですけど」
「……む」
「世界がどうとか、徳川がどうとか……分かりません」
言った瞬間、京香の目が熱くなった。
泣きたいわけじゃない。
理不尽に腹が立ったのだ。
「私は看護師になりたい。勉強したい。普通に生きたい」
京香は、硬貨を見つめる。
「なのに、こんな……」
“こんなこと”の中身が言えない。
言葉にしたら、すべてが決まってしまうから。
沈黙。
そして、幸村は、はっきりと言った。
「……すまぬ」
京香は息を呑んだ。
謝罪がある。
この人は、謝れる。
京香は、ぐっと唇を噛んで、言った。
「……謝られても困ります」
言ってしまってから、京香は笑いそうになった。
笑ってしまったら負けだと思うのに、笑いが込み上げる。
幸村の声が、少しだけ戸惑う。
「……困る、とは」
「困るは困るです。だって……あなた、いるんだもん」
京香は、机の上の問題集を指で叩いた。
「勉強、できないじゃん」
沈黙。
その沈黙の中で、畳の沈みがわずかに動く。
――下がる。
まるで、その場に正座でもするように。
幸村の声が、少し小さくなる。
「……どうすればよい」
京香は、目を丸くした。
(どうすれば、って……)
この人は、戦場の人だ。
命のやり取りをしてきた人だ。
そんな人が、受験生の「勉強できない」に対して、真面目に聞いている。
京香は、たまらなくなって、鼻で息を吐いた。
笑いと涙の中間みたいな息。
「……静かにして」
「……うむ」
「それと、勝手に物を動かさないで」
「……すまぬ」
京香は眉を寄せた。
「謝るの、早い」
「……お前の世界の作法が分からぬ」
その言葉が、京香の胸に落ちた。
――作法。
世界が違う。
この人は、自分の世界の作法を持っていて、京香の世界の作法も学ぼうとしている。
恐怖の中に、ほんの小さな希望が混じる。
京香は椅子に座り直し、問題集を開いた。
心臓はまだ速い。
でも、目は文字を追える。
「……ねえ、幸村」
「……うむ」
京香は、問題集の余白にシャーペンで小さく円を六つ描いた。
なぜか、描かずにいられなかった。
「この硬貨、あなたの?」
沈黙。
そして幸村は、低く言った。
「……渡し賃だ」
京香の背筋が凍った。
「……渡し賃?」
「……死者が川を渡るための」
京香は硬貨を見つめた。
六つの円が、今度は雨の光ではなく、部屋の灯りを吸っている。
「……じゃあ、あなたは……」
言いかけて、京香は止めた。
言ってしまえば、決まってしまう。
幸村は、答えなかった。
答えられなかったのか、答えたくなかったのか、京香には分からない。
しかし、その沈黙は“逃げ”ではなかった。
沈黙は、祈りに近かった。
京香は、目を閉じた。
(受験、模試、看護師、普通の人生)
胸の中で並べた言葉が、全部、少しずつ震えている。
それでも――京香は問題集の最初のページに指を置いた。
逃げない。
逃げたくない。
自分の夢を、こんなことで折りたくない。
そのとき。
京香の背後で、また畳がきしんだ。
今度はさっきより重い。
立ち上がる気配。
京香は振り向く。
当然、誰もいない。
けれど――空気が変わった。
温度が、すっと下がる。
さっきまでの“人の気配”とは違う。
もっと鋭い。もっと嫌な冷たさ。
京香の喉が鳴った。
「……幸村?」
返事がない。
呼吸音が、消えた。
その代わりに――笑い声が聞こえた。
子どもの笑いではない。
大人の、喉の奥で擦れる笑い。
楽しんでいるのに、喜んでいない笑い。
京香の指先が、冷たく痺れた。
硬貨の六つの円が、わずかに震える。
そして、幸村の声が、今までで一番低く、短く言った。
「……来る」
京香は息を呑んだ。
部屋の隅の影が、濃くなる。
濃くなった影の中に、誰かの輪郭が一瞬だけ浮かぶ。
京香は理解する。
この部屋にいるのは、幸村だけではない。
最初の夜から、もう――始まっている。




