第19話「修行と過去問――“守る”ための技術」
翌朝、京香は体育館裏へ向かった。
誰もいない時間。
冬の空気は薄く、息が白くなる。
「……何してんの、私」
自分で呟いて、少し笑った。
受験生がやることじゃない。
でも、受験生が“生き残る”ために必要なことだ。
京香は傘を持っている。
昨日のモップは学校のものだった。持ち出せない。
だから、傘。
現代の槍。
(ユッキー)
(うむ)
(今日、ちょっとだけ教えて)
(……奪わぬ。教えるだけだな)
「そう。私が動く。ユッキーは口だけ」
(口だけとは)
「口だけ。……先生みたいに」
京香が言うと、ユッキーの気配が微かに困ったように揺れた。
それが可笑しくて、京香は少しだけ軽くなる。
京香は傘の先を地面に置き、構える。
構える、というより“置く”。
敵の進路を塞ぐための位置に。
ユッキーが言う。
(重心を落とせ。肩で振るな。腰で動かせ)
「腰……?」
(槍は腕ではない)
京香は言われた通りに足を開き、腰を落とす。
すると世界が少しだけ低くなる。
その低さが、安心になる。
(次。——受けるな。避けて、止めろ)
「止める」
(殺さずに、止める。お前の道だ)
京香は息を吐き、傘を滑らせるように動かす。
突くのではない。線を引く。
そこを越えるな、と境界線を作る。
傘が風を切り、空気が鳴る。
音が軽い。
それが救いだ。
槍の音ではない。高校生の音だ。
そこへ、スマホの通知が入る。
京香は動きを止めた。
『模試まであと○日』
現実が刺さる。
でも、刺さるほうがいい。
現実は京香を“京香”に戻す。
京香は帰宅し、机に向かった。
過去問を開き、ペンを持つ。
指先が、少しだけ鈍い。
でも、昨日よりはましだ。
修行で戻ったのではない。
“選んだ”ことで戻った気がした。
(ユッキー、これ解ける?)
(……分からぬ)
「だよね」
京香は笑った。
この人は戦場で生きた。
私は試験で生きる。
世界が違う。
だから面白い。
京香は過去問を解きながら、ふと胸の奥へ問いかける。
(ねえ。ユッキーは、自分がなんで戻ったと思ってる?)
ユッキーの気配が、少し遠くなる。
(……徳川が、蘇ると思った)
「家康?」
(……うむ。だが、迷いがある)
「迷い?」
(俺が戻る理由が、それだけなら分かりやすい。……だが、違う匂いがある)
京香はペンを止める。
(天海?)
(……うむ)
その名が出るだけで、空気が冷える。
天海はただの敵ではない。
“思想”として戦う敵だ。
京香はペンを握り直し、静かに言った。
「私は、夢を叶える。世界は……その次」
言い切って、自分でも驚くほど芯がある。
これは逃げではない。
選択だ。
ユッキーが低く言う。
(……それでよい)
そして続ける。
(だが、選ぶには力が要る。力とは、優しさでもある)
京香の胸が熱くなる。
恋ではない。
でも、情が芽を出しかける温度。
その夜。
京香は過去問の最後の一問を解き終え、机の端の硬貨に目をやった。
硬貨は冷たい。
けれど、その冷たさの中に、わずかに“体温の記憶”が混じっている気がした。




