第17話「事件の後――心が追いつかない」
保健室のカーテンは、世界を二つに分ける。
外側は日常。内側は、誰にも見せたくない“弱さ”。
京香はベッドに横たわり、天井の白を見つめていた。
指先がまだ冷たい。
腕の内側に、細い痛みが走る——傷ではない。疲労の形をした警告。
先生が椅子を引き、低い声で言った。
「……三階女子トイレで、何があったの?」
京香は答えられない。
答えれば、日常が壊れる。
壊れるだけじゃない。言葉にした瞬間、繋がる。
「転んだ……」
嘘ではない。
転びそうになった。命が。
先生は疑いの目ではなく、心配の目を向けた。
それが京香には痛い。
「救急車呼ぶほどじゃないけど、顔色が悪い。今日は家で休みなさい」
京香は頷いた。
休むことは負けではない。
看護師になりたいなら、休む判断ができなければいけない。
カーテンの外で愛美が小さく泣いた。
京香はそれを聞いて、胸が潰れそうになる。
(私が巻き込んだ)
胸の奥でユッキーが言った。
(違う)
(違わない。私が……行った)
(お前は、守った)
京香は、目を閉じた。
守った。
守ったのに、心が追いつかない。
身体は戦えたのに、心が“普通の女子高生”のままで立ち尽くしている。
帰宅。
家の玄関を閉めると、静けさが痛い。
母は夜勤。ひとり。
京香は机に向かい、問題集を開こうとして、手が止まった。
紙の上の文字が“遠い”。
頭が現実に戻っていない。
(ユッキー)
(……うむ)
(あの男子……助けられたかな)
ユッキーはすぐに答えない。
答えないまま、京香の背中に“守りの気配”を置く。
それが返事になっている。
(……身体は戻る。だが、心は)
(心は?)
(心は、残る)
京香は唇を噛んだ。
残る。
それが怖い。
“慣れる”のが怖い。
“残る”のが怖い。
京香は、硬貨を掌に乗せた。
六文銭。
冷たさが骨に届く。
(代償……これ?)
(……近い)
ユッキーの声が、ほんの少しだけ震えた。
戦場で震えたことのない声が、震えている。
(ユッキー、怖いの?)
沈黙。
そしてユッキーが、絞るように言う。
(俺は、繰り返すのが怖い)
京香の胸が、痛くなった。
(……月香と同じ?)
(……うむ)
京香は、言葉を飲み込む。
月香の名は繋がる。
でも、もう繋がってしまっている。
京香は、ゆっくり言った。
「……ユッキー」
呼ぶと、気配が少しだけ柔らかくなる。
「私は、戦友じゃない。まだ」
(……うむ)
「でも、日常の人ってだけでもない。……もう戻れないんだよね」
自分で言って、自分で震えた。
戻れない。
高校生の日常へ。
ユッキーは、そこで否定した。
(戻す)
京香は目を見開いた。
(戻す?)
(俺が、戻す)
その言葉が、京香の心臓を強く打った。
嬉しいのに怖い。
約束は、破られたときに人を壊すから。
京香は、少しだけ笑った。
泣きそうな笑い。
「……ユッキー、そういうとこ、ズルい」
(……ズルいとは)
「優しいこと言うの、ズルい」
沈黙。
そして、ユッキーが不器用に言う。
(……すまぬ)
「謝らないで」
京香は硬貨を机に置く。
「代わりに、全部説明して。分からないことは分からないでいい。嘘は要らない」
ユッキーの気配が、深く頷いた。
(……承知)
京香はそこで初めて、事件の後に“前を向く”気がした。
心が追いつかなくてもいい。
追いつくまで、二人で歩けばいい。
窓の外で、風が鳴った。
雪の匂いはしない。
今はまだ、境目の夜。




