第16話「女子トイレ事件(西尾憑依)――白の中の刃」
白すぎる空間は、命を削る。
京香は、保健室で何度もそれを見てきた——白い壁、白いシーツ、白いガーゼ。清潔のための白が、時に人から体温を奪う色になる。
だから、三階女子トイレの白に足を踏み入れた瞬間、身体が先に拒否した。
息が浅くなる。鼓動が喉の裏を叩く。
それでも京香は立ち止まらない。
放課後。生徒はまばら。清掃当番のバケツの水音が遠い。
“日常の音”があるうちに、済ませたい。逃げではなく、確認だ。兆候を見逃さないための、確認。
入口の前で、京香は胸の奥に呼びかける。
(ユッキー)
(……うむ)
返事は短い。いつもより低い。
緊張している。京香の背骨の内側で、槍が起き上がる気配。
(入る。勝手に出てこないでね。ルール)
(……承知)
京香は、ひとつ深呼吸して扉を押す。
トイレの空気は、外より冷たい。
人工的な冷たさ。消臭剤の匂い。濡れた床のアルコール臭。
個室の列がまっすぐ並ぶ。
鏡が、京香の顔を反射する。
普通の高校生の顔。少し青い。目の下に疲れ。
そこに、混じる。
鏡の端が、ほんの一瞬だけ“別の景色”を映した。
雪。
火。
軍靴の規律正しい音。
そして、笑ってはいけない笑い。
京香は反射で目を伏せた。
目を逸らすのは負けじゃない。見ないと決めるのも選択だ。
靴底が、ぴちゃ、と鳴った。
床に水滴が落ちている。
だが、その水滴は、普通に落ちていない。
点々と続く水の粒が、排水溝から“這い出て”くるように並んでいる。
しかも、京香の足元に向かって——規則正しく。
胸の奥で、ユッキーの気配が鋭くなる。
(来る)
(分かった。……でも、ここで暴れない。人が来る)
(……うむ)
京香はゆっくり後退し、入口へ戻ろうとした。
そのとき、個室の奥から「コン」と金属が当たる音がした。
カチ、カチ——刃を出し入れする、乾いた音。
京香の背中に冷たい汗が走る。
現実の高校生の武器だ。カッター。
怪異より、人間の刃のほうが怖い。
個室のドアが、ぎ、と開いた。
出てきたのは、男子生徒だった。
この学校の制服。
さっきコンビニ前で遭遇したあの男子と、同じ雰囲気の“薄さ”。
でも、顔は違う。
目が赤いわけではない。
赤い点が、瞳孔の奥で“揺れている”。
「……入るなって言っただろ」
声は若い。
それなのに、言葉の端に古い泥が混じる。
京香の喉が詰まる。
「……あなた、誰」
男子が笑った。
笑ってはいけない笑い。
口角だけが上がり、目が動かない。
「誰でもいい。ここは“境”だ。匂いが濃い」
「……真田の匂いがする」
ユッキーの気配が、胸の奥で怒りではなく“無念”として震えた。
京香はその震えを感じ取る。
この敵は、ユッキーに直接、因縁がある。
男子の手の中で、カッターの刃が伸びる。
白い蛍光灯の下で、刃が光る。
光るほど、薄い命を切れる。
京香は一歩下がり、振り返って入口へ走ろうと——したが、足が止まった。
個室の奥から、別の足音がしたからだ。
女子トイレの中で、もう一人が動いている。
それは、人間の足音じゃない。
規律正しい軍靴の音。
京香は歯を食いしばる。
(ユッキー、出る?)
(……出ぬ。お前のルールだ)
(でも、負けたら終わる)
(負けぬ。お前が“選ぶ”)
その言葉が、京香の背骨を支えた。
選ぶ。
——京香は、戦うのではなく“守り方を選ぶ”。
京香の視線が、手洗い場の横へ走る。
清掃用具。モップ。
長い柄。軽い。槍ではない。けれど“槍の形”をしている。
京香はモップを掴んだ。
握った瞬間、手の中の重心が変わる。
京香の筋力の範囲内で、間合いだけが伸びる。
男子が踏み込む。
カッターが、京香の腕へ向かう。
京香はモップの柄を床へ置いた。
“置く”だけで、進路が塞がる。
突くのではない。制圧だ。
殺さない。傷つけない。助ける側の戦い方。
カッターが柄に当たり、ギッと嫌な音を立てた。
刃が折れそうになる。
男子の顔が歪む。
「……その動き。真田だな」
古い響きが強くなる。
男子の身体が、別の“意志”に侵食される。
「真田が……最後に何をしたか、知ってるか?」
京香は答えない。
答えたら、言葉で縛られる。
京香はただ、一歩だけ踏み込む。
モップの柄が、男子の手首を打った。
カッターが床に落ちる。
乾いた音が白い空間に響き、やけに大きい。
一瞬だけ、男子の目が戻った。
恐怖の目。混乱の目。
「……え、俺……なんで……」
京香の胸が痛む。
この子も被害者だ。
だから、ここで終わらせる。
「動かないで。大丈夫。怪我してない?」
京香は看護師志望の声で言った。
言葉が現実をつなぐ。
“助ける側”でいるための言葉。
だが、その瞬間。
男子の顔が、ふっと笑った。
戻ったはずなのに、戻っていない笑い。
「助ける? ……笑わせるな」
声が変わる。
若い声の奥から、古い声が顔を出す。
「俺は……西尾甚左衛門」
名前を聞いた瞬間、ユッキーの気配が“凍った”。
凍ったのは恐怖ではない。
何百年分の無念が、同じ一点で噴き上がる凍り方。
西尾が続ける。
「俺は、真田を斬った。……斬ったんだよ」
男子の唇が歪む。
同時に、トイレの排水溝が笑った気がした。
水滴が、床を逆流し、京香の足元へ伸びてくる。
「……みんな俺を見た。『卑怯者』って目で見た」
西尾の声が、ふいに“人間”になる。
悔しさが滲む。
「ボロボロだったんだぞ。真田は。鎧も血も、もう——」
「それでも、戦場では止まらない。誰かが終わらせる。俺が終わらせた」
次の瞬間、その“正しさ”が、狂気へ転ぶ。
「なのに……俺だけが汚れ役か?」
西尾が叫ぶ。
叫びと同時に、排水溝から黒い影が噴き出した。
白いタイルに黒が広がる。
清潔の白が、汚される。
京香の胃がひっくり返る。
(ユッキー……!)
(……京香)
ユッキーの声が、今まででいちばん“近い”。
京香の内側から、槍が起き上がる。
だが、奪わない。奪えない。
京香が、許さない。
西尾が拾い損ねたカッターの柄を掴む。折れた刃でも十分に危険だ。
男が突っ込んでくる。
京香はモップを横に払う。
男子の肩に当たり、身体が壁へ叩きつけられる。
京香の喉が震える。
傷つけたくない。
でも、守るには止める必要がある。
「やめて!」
京香が叫んだ。
叫びは、敵ではなく“この子”に向けた。
「あなたの身体、あなたの人生でしょう!? 返して!」
西尾の笑いが、ひときわ冷たくなる。
「返す? ……返せるなら返してる」
その言葉だけが、妙に真実だった。
京香は息を呑む。
この悪霊は、単なる悪じゃない。
無念が、暴走になっている。
そのとき、入口の扉が開いた。
「……京香!?」
愛美の声。
現実の声。
最悪だ。見られる。
京香は反射で、愛美に向かって叫ぶ。
「入らないで!! 先生呼んで!」
愛美が怯え、後ずさる。
その瞬間、西尾が笑った。
「ほら。日常が壊れる」
京香は歯を食いしばり、モップを床へ突き立てるように置いた。
西尾の進路を塞ぐ。
逃げ道を塞ぐ。
自分の逃げ道も塞ぐ。
(選ぶ)
京香は選ぶ。
ここで日常を壊させない。
ここで、この子を殺さない。
ここで、ユッキーに“全部”をやらせない。
京香は低く言った。
「ユッキー。……一瞬だけ。手を貸して」
ルールの例外。
しかし、“奪う”のではなく“貸す”。
胸の奥が熱くなる。
京香の視界が、ほんのわずかに低くなる。
身体の重心が落ち、呼吸が戦場の呼吸に変わる。
ユッキーの間合いが、京香の中で“揃う”。
西尾が突っ込んだ瞬間、京香はモップの柄を滑らせ、相手の足首へ絡めるように当てた。
転倒。
西尾(男子の身体)が床へ倒れ、カッターが遠くへ転がる。
京香はその上に飛び乗らない。
殺さない。
ただ、膝で相手の肩を抑え、動きを止める。
ユッキーの声が、京香の骨の中で言う。
(……止めた。よくやった)
京香は息を吐き、震える声で言った。
「……あなた、痛い? 苦しい?」
西尾の顔が歪む。
悪霊の顔が、ほんの一瞬だけ“武士の顔”になる。
「……苦しいに決まってるだろ」
それは、京香に向けた言葉ではない。
自分の人生に向けた言葉だ。
次の瞬間、影が西尾の身体から抜けようとした。
逃げる。
排水溝へ戻る。
ユッキーの気配が鋭く伸びる。
(逃がすな)
(……でも!)
(封じねば、次が来る)
京香は歯を食いしばり、硬貨を取り出した。
六文銭。
掌の冷たさが、指先の鈍さと同じ方向へ流れる。
京香は、硬貨を床へ置いた。
「……ここから出ないで」
命令ではない。
祈りの言葉。
祈りは、時に刃より強い。
影が硬貨の縁で、びり、と止まった。
止まった瞬間、西尾の声が笑いではなく“呻き”になる。
「真田……!」
ユッキーが低く答える。
(……西尾)
呼び捨て。
恨みではない。
“戦場の名”としての呼び捨て。
その一言で、西尾の影が凍る。
凍ったまま、床の白に縫い付けられる。
京香の指先が、きゅっと冷えた。
——代償の前兆。
京香は息を止めた。
でも、目を逸らさない。
愛美の泣きそうな声が遠くで聞こえた。
先生の足音が近づく。
京香は最後に、西尾の身体(男子)へ優しく言った。
「……大丈夫。あなたは悪くない」
その言葉が届いたかどうかは分からない。
でも京香は、助ける側でいることを、捨てなかった。
白い空間に、ひとつだけ体温が残った。




