第11話「語らない理由」
雪が降った夜のことを、京香は翌日から“思い出さないように”していた。
怖いからではない。怖さなら、見た瞬間に逃げればいい。
思い出してしまうと、日常の隙間が全部、そこへ繋がってしまう気がした。
学校へ行き、授業を受け、ノートを取って、昼にパンを食べて、塾へ行く。
それを「普通」と呼ぶために、京香は一つ一つを丁寧にこなした。
看護師になりたい、という夢は、空想じゃなくて生活の形だからだ。
けれど、三階女子トイレの前を通るたび、空気がひとつ冷える。
掲示板の前を通るたび、スマホが重くなる。
“触れたら繋がる”という直感は、弱まるどころか研ぎ澄まされていった。
その夜。
京香が机に向かうと、硬貨が机の木目に冷たく貼りついて見えた。六つの円。
指先の感覚はまだ少し鈍い。鉛筆の芯が紙を削る音が、普段より遠い。
京香は胸の奥へ言った。
(幸村)
(うむ)
(……月香って、誰)
空気が止まった。
止まったのは音ではなく、“気配の流れ”だ。
そこに幸村が居るのは分かる。だが、今この瞬間の幸村は、背中に槍を受けたまま立っているみたいに硬い。
(……語るな、と言った)
(言った。でも、私は知りたい)
京香の言葉は強くない。
ただ、まっすぐだった。
看護師志望の子が、患者の「痛い」を無視しないのと同じまっすぐさ。
幸村は長い沈黙の末、低く言った。
(……あれは、名ではない)
(え)
(……名を呼ぶと、繋がる)
京香は息を呑んだ。
繋がる。
それは、掲示板の直感と同じ言葉だった。
(……じゃあ私は、もう繋がってる)
幸村は否定しない。
否定できない。
その沈黙が、京香の胸に刺さる。
(幸村、隠してるの?)
(嘘は言わぬ)
即答だった。
その即答が、逆に怖い。
「全部は言えない」ではなく「嘘は言わない」——言える範囲が狭い。
(じゃあ……分からないの?)
幸村の気配が、ほんの少しだけ揺れた。
恥でも怒りでもない。
“恐れ”の揺れ。
(……俺は、知っていることがある。だが、理解していない)
(理解してない?)
(……俺が此処にいる理由も、まだ分からぬ)
京香は指先を握りしめた。
受験の問題より、よほど難しい。
けれど、ここを曖昧にしたままでは前へ進めない。
(その“理解してない”が、京香の命を削る)
そんな言葉が喉まで出かかって、京香は飲み込んだ。
代償は不可逆だ。
“魂が削れる”という事実は、京香の中で重く沈んでいる。
京香は代わりに、別の問いを選ぶ。
(ねえ。月香は、どうしたの)
幸村の気配が、鋭く沈んだ。
怒りではない。
“沈める”という防御だ。
(……雪の夜に、限界を超えた)
(限界)
(憑依の、限界だ)
京香は喉が冷えた。
指先の鈍さが、いきなり現実の刃になる。
(幸村が……やらせたの?)
問いは残酷だ。
京香自身がそう思ったから、胸が痛む。
幸村は、答えない。
答えない代わりに、息のように言った。
(……俺は、止められなかった)
その言葉だけで十分だった。
“止められなかった”には、やらせたのと同じ重さがある。
幸村はそれを自覚している。
自覚しているからこそ、京香に説明しきれない。
(だから、語らないの)
京香は言った。
責めるためじゃない。
理解するため。
幸村は小さく言う。
(語れば、同じ道へ近づく)
(私が?)
(……お前が、選ぶ前に)
京香は目を閉じた。
怖いのは敵じゃない。
怖いのは、自分が「選ぶ」瞬間が来ることだ。
そのとき、机の端で硬貨が、わずかに“転がろうとした”。
転がるのではない。
誰かが指で押したみたいに、少しだけ動く。
京香は思わず硬貨を押さえた。
触れた瞬間、冷たさが掌から腕へ走る。
——そして、目の奥に“雪”が差し込んだ。
白い野。
遠くの火。
軍靴の音。規律正しい足音。
その中に、女が立っている。
背中だけ見える。
振り返らない。
でも、その背中が“守ろうとしている”のが分かる。
京香は息を呑む。
(……月香)
名を呼んだ瞬間、胸の奥で幸村が鋭く反応した。
止めるためじゃない。
——恐れている。
雪の中の女が、初めてほんの少しだけ首を傾けた。
振り返らない。
そのまま、京香へ“言葉なし”で伝えてくる。
——語らないのは、あなたを守るため。
——語らないのは、あなたを選ばせるため。
京香は目を開けた。
部屋の中。
机の上。
硬貨は、京香の指の下で静かに冷たい。
京香は小さく言った。
「……幸村」
(うむ)
「語らないのは、逃げじゃないね」
幸村は答えない。
答えないのに、京香には分かる。
沈黙は、意図だ。
沈黙は、祈りだ。
その夜、京香は問題集を開いた。
問題を解きながら、ページの余白に六つの円を描く。
指先は鈍い。
それでも、線は引ける。
線が引ける限り、夢はまだ壊れていない。




