第1話「六文銭が濡れる」
冬の雨は、街の輪郭をいちど曖昧にしてから、やさしく元に戻す。
濡れたアスファルトは黒く、街灯の光だけが長く伸び、ひとの声は布で包まれたみたいに遠い。
京香は傘の内側に落ちる雨粒の音を数えながら、塾帰りの歩道橋を渡っていた。
息を吐くたび、胸の奥が冷える。
制服の袖口が湿って、指先だけが妙に敏感になっていく。
(明日、模試)
思考はそれしかないのに、集中の糸がほどける。
問題集のページをめくる指の感触まで、頭に残っているのに。
看護師になりたい。
その理由は、いつも言葉にすると小さくなる。
「人を助けたい」――それだけ。
でも京香にとって、それは、身を削ってでも守りたい形だった。
去年、駅のホームで倒れた老人を見た。
周囲の大人たちは誰も悪くない顔をして、けれど誰も動けなかった。
京香は走った。肩を叩いて声をかけて、駅員を呼んで、救急車が来るまで手を握っていた。
その老人が、最後に言った。
――ありがとう。怖かった。
その一言が、京香の中に残っている。
涙ではなく、火種みたいに。
だから争いが嫌いだ。
人を押し倒す力より、人を立たせる手がほしい。
受験は別だ。受験は、戦争に似ている。
点数は刃物みたいに公平で、容赦がなく、言い訳を許さない。
それでも京香は逃げない。逃げなければ、救える場所へ行けるから。
歩道橋の中央あたりで、京香は足を止めた。
排水溝の脇、雨水が渦を巻くところに、金属の光が紛れている。
(落とし物?)
覗き込むと、それは硬貨だった。
ただし見慣れた一円や十円の色ではない。濡れた銅とも違う、鈍く沈んだ金属の色。
雨水に押されて、くるり、くるり、と回っている。
京香は屈んで拾い上げた。
――冷たい。
金属の冷えとは質が違う。
雪よりも冷たい、体温を失ったものの冷え。
京香は一瞬、掌から放り出したくなった。
でも硬貨は、落ちない。
濡れた肌に吸い付くように、掌に居座る。
京香は眉をひそめた。
「……なに、これ」
硬貨の片面に、丸い刻印が六つ並んでいた。
六つの円はどれも微妙に歪んでいて、まるで人の指で押した跡みたいだ。
六。
六枚。
その数字だけが、妙に目に刺さる。
京香が指でなぞった瞬間、耳がふっと詰まった。
雨音が遠ざかり、代わりに、自分の鼓動が大きく響く。
背後で、足音がした。
――走る音。
京香は振り返った。
歩道橋の上に、誰もいない。
傘の列もない。ひとの気配もない。
ただ雨が、規則正しく落ちるだけ。
(気のせい……?)
京香は硬貨をポケットに押し込み、早足で歩き出した。
胸の奥に、針が一本残ったみたいな違和感がある。
自宅のドアを開けたとき、玄関の匂いが少しだけ違った。
濡れたコートの匂い、洗剤の匂い――その下に、ほんのわずか、土の匂いが混じる。
「ただいま……」
言いかけて、やめた。
母は夜勤。今日は家にいない。
ひとりの部屋は、好きだ。
静かで、自分の呼吸と未来だけに集中できるから。
なのに、今日の静けさは、少し違う。
音が“ない”のではなく、音が“息を潜めている”。
京香は制服を着替え、机に向かった。
問題集を開く。シャーペンの芯を出す。いつもの準備。
――それでも、集中できない。
ポケットの硬貨が、体温を奪い続けている気がした。
京香は引き出しを開け、硬貨を取り出した。
机の上に置くと、湿った光が、部屋の白い壁に小さな影を作る。
六つの円。
歴史の授業で聞いた言葉が、勝手に浮かんだ。
(六文銭……)
死者が川を渡るための渡し賃。
戻らない人のための、最後の約束。
京香は思わず笑いそうになった。
――そんなの、迷信だ。現代だ。明日模試だ。
なのに。
机の上のペンが、ころり、と転がった。
京香は息を止める。
ペンは止まり、次の瞬間、カーテンがわずかに揺れた。
窓は閉まっている。暖房の風は届かない位置だ。
畳が、きしんだ。
足音ではない。
人が立ち上がるときに畳が沈む、あのきしみだ。
京香の視線が、畳へ落ちる。
――沈んでいる。
誰かがそこに立っているみたいに、畳がわずかに沈んでいる。
濡れた足跡ではない。
体重の痕跡だけが、そこにある。
京香は喉が鳴るのを感じた。
(……いる)
怖い。
でも、目を逸らしたら負けだ、と京香の中の何かが言う。
病室で、人が一番怖いのは痛みじゃない。
“分からないこと”だ。
京香は息を吸って、声を出した。
「……だれ?」
返事はない。
ただ、気配だけが、じわじわと濃くなる。
硬貨の冷たさが、掌へ戻ってきた。
京香はそれを掴んでしまっている。まるで、掴まされている。
そして――呼吸が聞こえた。
耳元ではない。
部屋全体に、薄く染み込むような、静かな呼吸。
京香は、声が震えるのを感じながら言った。
「……ここに、いるの?」
沈黙。
長い沈黙。
その沈黙の間に、京香は気づいてしまう。
この気配は、怒っていない。
でも、危険でもないとは限らない。
むしろ、怒りがないぶん――何が起きるか分からない。
やがて、声が返ってきた。
男の声。
けれど現代の若い男の声じゃない。
古い時代の映画を、遠くで再生しているみたいに、擦れて、硬い。
「……ここは、どこだ」
京香の背筋が冷たくなる。
質問が、あまりに人間らしかったからだ。
怖いのは怪異そのものより、怪異が“人間の顔”をしていることだと、京香は初めて知った。
「……私の、部屋です」
「……名は」
京香は迷う。
名前を教えていいのか。
でも、教えないのも怖い。拒絶は、相手を怒らせるかもしれない。
京香は、看護師の実習動画で見た手順を思い出した。
“まず自分から名乗る。相手に安心を渡す。”
「……京香。京香です」
沈黙。
そして、男は同じ名を、確かめるように繰り返した。
「……京香」
その呼び方は、乱暴ではない。
なのに京香は、胸の奥がぞわりとする。
畳の沈みが、わずかに動いた。
まるで一歩、近づいたみたいに。
男の声が、低く言う。
「……武具がない」
京香は理解できない。
武具? 何の話?
声は続く。
「槍を……」
言葉が途切れた。
それは、言い淀みではなく――喉に何か詰まったみたいな、硬い途切れ方だった。
京香は硬貨を見つめた。
六つの円が、濡れた光を吸っている。
まるで、ただの金属ではなく、過去の約束そのものみたいに。
男の声が、今度はささやくように言った。
「……真田」
京香は、息を呑んだ。
次の瞬間、硬貨の冷たさが、ただ冷たいだけではなくなる。
胸の奥に、別の時代の寒さが流れ込む。
雪の匂い。
鉄の匂い。
遠くで鳴る、誰かの叫び。
京香は、膝が抜けて座り込んだ。
雨音だけが、外の世界を支えている。
だが京香の部屋の中だけ、歴史が、呼吸を始めてしまった。
――明日の模試より先に。
机の上の問題集の文字が、ぼやける。
京香はそれでも、硬貨を握った。
逃げない。
怖いからこそ、逃げない。
その選択が、後に自分の人生をどこまで変えてしまうか――まだ知らないまま。




