丸山真男「である」ことと「する」こと・まとめ
■「権利の上に眠る者」
◆末弘厳太郎の民法の「時効」についての説明
「金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババを決め込む不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になる」
↑ 「ずいぶん不人情な話のように思われる」が
「この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている」
「請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック」
「債権は行使することによって債権であり得るというロジック」
←「一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味が潜んでいる」
「時効」…不当な状態であっても、一定期間続いた事実を尊重してその事柄を違法としないこと。
◆「日本国憲法の第十二条」=「「時効」について見たものと、著しく共通する精神」
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」
↑
「この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しており」、「「自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだと言える」
「「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっている」
…「ナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程が指し示している歴史的教訓にほかならない」
◆「アメリカのある社会学者」の話も「同じ発想」
「自由を祝福することは易しい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である。」
「私たちの社会が自由だ自由だと言って、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質は空っぽになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言いかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由であり得るということ」
〇解説
「自由を祝福すること」…自由でいいなと自由であることを喜ぶこと
「自由を擁護すること」…自由を守ること。自由という権利を保護すること。
「自由を市民が日々行使すること」…常に自由であり続けようとすること。現在の自由の権利を奪われるのではないかと恐れ、常に自由を獲得しようとすること。「日々自由になろうとすること」
…「近代社会の自由とか権利とかいうものは、」「はなはだもって荷厄介な代物」
■近代社会における制度の考え方
◆真の「自由人」
✕「自分は自由であると信じている人間」…「はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではない」
〇「自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者」
…「なんとかして、より自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることにな」る。
…「制度についてもこれと似たような関係があ」る
◆「民主主義」
「人民が本来制度の自己目的化(それ自体が目的となってしまうこと)――物神化(それが持つ価値を越えて崇拝されること)――を不断に警戒し、制度の現実のはたらき方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなり得る」。
「不断の民主化によってかろうじて民主主義であり得る」。
「民主主義的思考とは、定義(「民主主義とは~なものである」)や結論(「以上から、民主主義的であったと考えられる」と判断すること)よりもプロセス(常に民主的であろうと努力する過程)を重視することだと言われることの、最も内奥の意味がそこにある」。
〇「制度の自己目的化」
その制度が本来の目的を見失い、それを行う事自体が目的になること。
(例) 毎日の練習は、試合に勝つため(勝つことが目的)であったのに、練習自体が目的になってしまうこと。練習が、目的達成のために行われないこと。試合に勝つという目的が失われ、練習のための練習になること。
〇「債権は行使する(請求し続ける)ことによって債権であり得る(自分の債権が保障される)というロジック」→「近代社会の制度やモラル、ないしはものごとの判断の仕方を深く規定している「哲学」にまで広げて考えられる」
◆①「プディングの味は食べてみなければわからない。」
=「食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考える」
=「する」論理・「する」価値
=〝to do or not to do〟
⇔
②「プディングの中に、いわばその「属性」(もともと持っている性質)として味が内在していると考える」
=「である」論理・「である」価値
=〝to be or not to be〟
↑
①と②は、「社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極」
〇「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動
身分社会を打破し、あらゆるドグマ(教条、独断)を実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に(初めから、もともと、前提として)通用していた権威に対して、現実的な機能(働き)と効用(効果、効き目)を「問う」近代精神のダイナミックス(原動力、活動力)
〇「『である』こと」に基づく組織…「血族関係」、「人種団体」…「将来とても(も)なくなるわけではない」。
〇「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでも」ない。
〇「ある面でははなはだしく非近代的であ」る…「である」価値が頑固に根を張ること
「他の面ではまたおそろしく過近代的でもある」…「必要以上に、過度に「する」価値を求めること←(後出の、)「大都市の消費文化」、「「休日」や「閑暇」の問題」、「学芸」の問題など
■「である」社会と「である」道徳…「徳川時代のような社会」の「例」
・「出生とか家柄とか年齢(年寄り)とかいう要素が社会関係において決定的な役割を担って」おり(=「である」社会、身分制社会)、「それらはいずれも私たちの現実の行動(「する」こと)によって変えることのできない意味を持ってい」る。
・「同郷とか同族とか同身分とかいった既定の間柄が人間関係の中心になり、仕事や目的活動を通じて未知の人と多様な関係を結ぶというようなことは、実際にもあまり多くは起こ」らず、「そういう「『する』こと」に基づく関係にしても、できるだけ「である」関係をモデルとし、それに近づこうとする傾向がある」。
(例)
「大名であること、名主であること」
↓「から」
「その人間がいかにふるまうかという型がおのずから決まって」くる。
・「こういう社会でコミュニケーションが成り立つためには、相手が何者であるのか、つまり侍か百姓か町人かが外部的に(外から見ただけで)識別されることが第一の要件とな」る。
・「服装、身なり、言葉づかいなどで一見して相手の身分がわからなければ、どういう作法で相手に対してよいか見当がつかない」。
・「逆に言えば、こういう社会では、人々の集まりで相互に何者であるかが判明していれば」、「別段、討議の手続きやルールを作らなくても、また「会議の精神」(会議を円滑に進行しようとする態度)を養わなくても、「らしく」の道徳に従って話し合いはおのずから軌道に乗る」。
・「あかの他人の間のモラルというものは、ここではあまり発達しないし、発達する必要もない」。
=「公共道徳、パブリックな道徳」
(例)「儒教道徳」
「君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友」「をさらに超えた他人と他人との横の関係というものは、儒教の基本的な人倫(道徳)の中に入ってこない」。
■業績本位という意味
◆ 「である」論理から「する」論理への推移
「家柄とか同族とかいった素性に基づく人間関係」
↓
「何かをする目的で――その目的のかぎり(限定)で取り結ぶ関係や制度」・「「『する』こと」の原理」・
「『する』こと」に基づく上下関係」
…「機能(働きによる)集団――会社・政党・組合・教育団体など――の組織」
「ある特定の目的活動」
「団体内部の地位や職能(仕事の内容)の分化も仕事の必要から生まれた」
(例)「会社の上役や団体のリーダーの「えらさ」は上役であることから発するものでなくて、どこまでも彼の業績が価値を判定する基準となる」。
「彼の下役との関係はまるごとの(人格や人としての価値全部・全体による)人間関係でなく、仕事という側面についての上下関係だけ」。
↑
「もし日本で必ずしもこういう関係が成立してないとするならば、――仕事以外の娯楽や家庭の交際にまで会社の「間柄」(役割関係・上下関係)がつきまとうとするならば――職能関係(仕事上の上下関係)がそれだけ「身分」的(「である」関係・職場や仕事を離れても継続する上下関係)になっている」。
◆「「する」社会と「する」論理への移行」
…「具体的な歴史的発展の過程では、すべての領域(分野・場面・ケース)に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えていくものでも」ない。「領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい」から、「同じ近代社会といってもさまざまのヴァリエーションが生まれてくる」。
■制度のたてまえ(表向きの方針)だけからの判断
「政治が民主的かどうかということを制度のたてまえだけから判断する考え方」
=「その制度の現実的なはたらきによってテストしないで、それ自体として、いいとか悪いとか決めてしまう考え方」
=「「よい」制度からはよいはたらきが、「悪い」制度からは悪い作用が必然的に流れ出るという見方」
↑
「理想的な社会や制度が一つの「模範的」な状態として、いわば青写真(設計図の複写写真・おおよその構想)のように静止的に想定されている」=「美しい花園」・「神聖化」
⇔
「私たち国民が自分の生活と実践の中から制度づくりをしてい」く。
「私たちの生活と経験を通じて一定の法や制度の設立を要求し、またはそれらを改めていく」。
◆「制度のたてまえの論理」
「具体的政策 → 法の施行(法令を実際に実施すること) → 国会の多数決 → 国民多数の意思というような「首尾一貫」した還元論法(複雑な現象を単純な要素に分解して理解するアプローチ・考え方)によって、政策を実施した場合の具体的な効果についての面倒な測定や不断の検証の問題を一挙に跳び越してしまう」。
■日本の急激な「近代化」
「福沢諭吉が維新のころ幼児のために書き与えた「日々のをしへ」」
…「家柄や資産などの「である」価値から「する」価値へという、価値規準の歴史的な変革の意味が」、「あざやかに浮き彫りにされて」いる。
◆「近代日本のダイナミックな「躍進」の背景」
「「する」価値への転換」←「「宿命的」な混乱」
…「「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り」、「「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化(固定化)されてきた」。
↓
「近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な「村」を形成」→「「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が大手を振って通用」
⇔
「一歩「そと」に出れば、武士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通用しないようなあかの他人との接触が待ち構えている」。
〇「人々は大小さまざまの「うち」的集団に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざま」であり、「どうしても同じ人間が「場所柄」に応じていろいろにふるまい方を使い分けなければならなくな」るから。日本人は、「「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しの中で多少ともノイローゼ症状を呈している」。
■「する」価値と「である」価値との倒錯
「臣民の道」…東亜新秩序建設の歴史的使命と国民道徳のあり方を説いた文部省教学局の著作。1941年(昭和16)7月に刊行され,高度国防国家のもとでの臣民としての心得と日常生活のあり方を詳細に説いた。1937年刊の「国体の本義」と並ぶ政府の正統的国体論。その内容は大東亜共栄圏建設という地理的広がりをもち,国民生活の隅々にまで及んでいた。
「帰一」…同じ事柄と考えられること。
「弥縫」(びほう)…取り繕うこと。
「国体」…国家の在り方。特に、天皇中心の国家体制。
「大衆社会」…産業の発達による大量生産・大量消費、教育制度とマスメディアの発達による情報の普及などのために、政治、経済、社会、文化などのあらゆる領域において、大衆が重要な役割を果たすようになった社会。
「前近代性」…やり方などが一時代前のもので、合理性に欠けるさま。技術や方法、また考え方や文化が近代以前の様相を呈しているさま。
◆「効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展している」「大都市の消費文化」
①「「休日」や「閑暇」(ひま)」→「むしろ休日こそおそろしく多忙に「する」日と化してい」る。
「レジャーは「『する』こと」からの解放ではなくて、最も有効に時間を組織化するのに苦心する問題になった」。
②「学芸」→「すでにとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の規準が押し寄せてきている」。
「アルバイト」…論文。学問的業績。
■学問や芸術における価値の意味
◆アンドレ・シーグフリード『現代』
・「内面的な精神生活(思考・知識)」である(における)「教養」は、「しかるべき(ある・相当な)手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能(何かを行うこと)が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚を持つこと、これが問題なのだ。」
・「教養のかけがえのない個体性(独自性。独立性)が、彼(その人)のすることではなくて、彼がある(存在する)ところに、あるという自覚を持とうとするところに軸を置いていることを強調してい」る。
・「芸術や教養は「果実(結果)よりは花(それ自体)(に活がある)」」であり、「そのもたらす結果よりもそれ自体に価値がある」ことになる。
↑
「文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められないのはそのため」。
〇「文化的創造」・「文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではな」く、「それ自体「生きた」意味を持ってい」る。
「瞑想や静閑が昔から尊ばれてきた」。
「価値の蓄積ということが何より大事」。
■価値倒錯を再転倒するために
「政治化」…あらゆるものが政治の世界に持ち込まれること。すべてのものが政治的に考えられること。
〇「深く内に蓄えられたものへの確信に支えられてこそ、文化の(文化的)」「立場からする(行う)政治への発言と行動が本当に生きてくる」。
↑「そうした行動によって」
「「である」価値と「する」価値の倒錯――前者の否定しがたい意味を持つ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯を再転倒する道が開かれる」。
◎「現代日本の知的世界(知的活動)に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義(余裕を持った態度で文化を保護・振興する考え方)がラディカルな民主主義と内面的(精神的)に結びつくこと」だ。




