静かなる照準ー九七式狙撃銃の兵士ー
昭和十九年、ルソン島。
草いきれの濃い密林に、彼は一人、潜んでいた。
名を、中田一等兵という。齢二十五。眼光は鋭く、しかしどこか影を帯びている。かつて東京の中学校で代用教員をしていたが、召集を受け、歩兵第十七連隊へと編入された。射撃成績が良好だったため、狙撃兵として抜擢されたのだった。
彼の手にあるのは、九七式狙撃銃。
九九式歩兵銃を原型とせず、あえて三八式歩兵銃を改良したこの銃は、口径6.5mm。反動は少なく、発砲音も控えめで、狙撃任務にはうってつけだった。木製の銃床、固定式のスコープ、そして何より、職人が一丁一丁調整した滑らかな引き金。
「この銃だけは、裏切らない」
そう彼は思っていた。弾道の癖も、風の読みも、全て掌のうちにある。
この日、中田は一日を通して全く動かず、じっとジャングルの木陰からアメリカ軍の進路を見張っていた。地図にも記されぬ小道を、敵の斥候が進もうとしている。彼の任務は、敵の指揮官と思しき人物を排除し、部隊の進行を遅らせること。
スコープを覗く。相手は、おそらく中尉階級。双眼鏡を掲げ、部下に手信号を出している。
中田は深く息を吸い――吐いた。
静かに、引き金を絞る。
パン、と乾いた音。
スコープ越しに、敵中尉が膝から崩れ落ちるのを見届けた。
それで終わり。銃を肩にかけると、彼は森の奥へと姿を消した。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
中田一等兵は、九七式狙撃銃と共に、幾度も戦場を渡り歩いた。
ある時は、ビルマの山中で通信兵を撃ち抜き、ある時は、海岸の上陸部隊を狙撃して揚陸を妨げた。
しかし、彼は撃つたびに、少しずつ自分が削られてゆくのを感じていた。
敵を殺せば、味方が助かる。それは分かっている。狙撃兵の弾は一発で数十の命を守るのだ。
だが、スコープの向こうにある“命”を、その冷たいレンズ越しに何百度と見てきた彼には、それはただの「戦果」では済まされなかった。
やがて、戦況は悪化し、補給も絶たれた。中田の部隊は壊滅寸前となった。
撤退命令が出されたその日、彼は最後の弾を込めた九七式狙撃銃を胸に抱え、山中に身を潜めた。
「この銃と、ここで終わるのが俺の戦かもしれん」
そう思ったその時、ふいに聞こえたのは、小さな足音。
銃を構える。スコープを覗くと、そこには、まだ十にも満たぬと思しきフィリピン人の子どもがいた。
肩に火薬袋をかけ、兵士の陣地を探している。
中田は引き金にかけた指を――ゆっくり外した。
スコープを下ろし、深く息を吐いた。
「……もう、これでいい」
翌日、彼は自らの九七式を、地中に埋めた。
弾倉は空のまま。ボルトも外し、丁寧に布で包み込んで。
木の根元に、ただ一言刻んだ。
「黙して撃つ。されど、心までは殺さじ」
その銃が再び掘り出されることは、なかった。
けれども、それは確かに存在した。
静かなる戦場に、ただ一人、心を保った狙撃兵とともに。