ぼくの腕の中
最初に彼女を見たのは、入学式のあとの学科オリエンテーションだった。
ぼくを含めた新入生たちが、新たな人間関係を構築しようと奮闘する中、彼女はひとり何をするでもなく用意されたパイプ椅子に腰掛けていた。
茶色を筆頭に明るい髪色が多い中、彼女の艶やかな黒髪はぼくの目を引いた。
陶器のように白く、透き通るような肌。優れた芸術家が生み出すように整った顔の造詣。
どれをとっても目立ってしかるべきものであるのに、彼女はただひとり、静かに座っていた。
「混ざらないの?」
出来る限り自然に話しかけられたと思ったが、果たして成功していたのだろうか。ただ、彼女はぼくを見て嫌な顔ひとつせず、「あなたみたいな人に見付けてもらいたかっただけだから」と答えた。
その言葉の意味を、あの時のぼくは理解していなかった。今はもう、痛いくらいに理解している。
彼女は、高宮えみりはもうすぐ、透明になる。
数年に一度《《そういう》》人間が現れるということを、不勉強ながらぼくは彼女に出会うまで知らなかった。
原因は不明。治療法も不明。
存在感が希薄になるという症状に気付いた時にはもうほとんど手の施しようがないくらいになっていて、一年から一年半程度の《《余命》》を告げられたのだとか。
「大学入るより、もっといいことあったんじゃない?」
「まぁ、そうかもね。でも、他にあんまりないでしょう? 大勢が集まって、かつその中で積極的に人間関係を構築しようとする場って。大学生なら身元もしっかりしてるし」
「ああ、そう言われると確かに……」
「もう街中を歩いていても気付かれることはほとんどないし、最近は買い物もままならなくて。だからここでも誰にも見付けてもらえないかもって思ってた」
隣に座るぼくの顔を見て、彼女は文字通り花のように笑った。
「あなたがいて良かった」
ぼくは言葉に詰まった。少なからず存在した下心が恥ずかしく、彼女に笑い返せなかった。
そんなぼくの全てを見透かすような瞳。
それすらも、透明になる?
「相性があるんだって」
「相性?」
「そう。私の見え具合は人によって違うんだって。血縁者はだいたい最後まで見えるんだけど、そうじゃなくても相性がいい人は見えるって。酒井くんは見える人かもね」
「……見てて、いいの?」
絞り出すように発したぼくの言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。それから席を立って新入生の波の中、くるくると踊った。
くるくる。くるくる。
誰も気付かない。ぼく以外誰も。
こんなにも美しい彼女のことを、ぼく以外誰も見ていない。
「酒井くんがよければ、最後まで見てて!」
ぴょんと大きく跳ねて笑った彼女の姿は、今もぼくの記憶に深く刻まれている。
その日から、ぼくは彼女とほとんどの時間を過ごすようになった。
大学生らしいことがしてみたいと言う彼女のためにいくつかのサークルを体験し、一緒に日雇いのアルバイトをした。
ぼくは折に触れて彼女の写真を撮りたがったのだけれど、彼女は決して許してはくれなかった。
「写らなかったら嫌なの」
初めはやんわりと断っていた彼女が、ぼくのしつこさに耐えかねて零した言葉に、ぼくは大いに反省した。
それからは、とにかく彼女の姿を脳裏に焼き付けようと必死になった。彼女が苦笑しながら「目が真剣すぎて怖いよ」と言っても止めなかった。
夏休みに入る頃、彼女は色々と覚悟を決めたらしかった。確かにその時にはぼくの目からも彼女は半分以上透明になっていて、最後の時は近いのだろうと思わされた。
「一枚だけなら、許そうかな」
「え?」
水族館に行きたいと言われ、ついでに観光も楽しんだ帰り道のことだった。海に面した道を歩きながら、彼女はぼくを振り返って笑った。
白いワンピース。麦わら帽子。笑う彼女の向こうに見える夕陽が眩しかった。
「逆光だよ」
「わざとだよ」
シャッターを切ったぼくのスマホには、まるで彼女自身が橙色に輝いているかのような写真が保存される。
「あはは、透けてる」
「えみり」
「もう、会わない方がいいかなぁ」
「えみり!」
誰の目も気にせず、ぼくは彼女を抱きしめた。
見た目とは裏腹に、しっかりと温もりも鼓動も感じられる。彼女の輪郭はまだ彼女の存在をこの世に繋ぎ止めていた。
「どうせなら、ぼくの腕の中で消えてよ」
「本気にするよ」
「いいよ」
「じゃあ、そうして。ずっと離さないで」
ぼくたちはその日、一緒に彼女の家へと帰宅した。そうして彼女の家族に経緯を説明して理解してもらい、ぼくは彼女を抱きしめて暮らした。
夏休みが終わってしまったらどうしようかという心配は杞憂に終わった。
彼女は、夏の終わりに透明になった。
「酒井くん、ありがとう」
「え?」
「あなたに出逢えてよかった」
「ちょっと、待っ」
彼女がどんな顔をして消えていったか、分からない。かろうじて残っていた微かな輪郭が解けるように透明になって、ぼくの腕の中にはもう何もなかった。
「まだ三十一日じゃん、大学生の夏休みは、まだ、終わらないって」
頬を、服を濡らす涙は、彼女と同じくらいに透明だった。