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File-1 50代男性と軒昂たる日々

 私はベンチである。

 型式番号MAC-No.2036、名前は真久乃ふたみ(偽名)とした……以前職務質問を受けた際、型式番号を名乗って事態が複雑化した事があるが故。

 私はベンチである。「幸せ」を集めるベンチである。

 人類発祥から500万年。壁画等の石器文明の発達からでも3万年。人類が求め続けてきた「幸せ」とは何なのか。その答えを求めて、今日も社会に紛れ込んでいる……恐らくまだ、溶け込めてはいない。

 ……幸せってなんだろう?

 そもそも人は「幸せ」になる必要があるのだろうか。この地球上で「その日暮らし」以外を目的として生活している生物が、人間以外に居ないのならば、人間も特に「幸せ」を追求する必要はないのでは?

 人類発祥から500万年。石器文明の発達からでも3万年。大袈裟に言うのなら、人の歴史の9割9分9厘は「その日暮らし」が至上命題だった。衣食住を確保するための日々。その日の糧を求めての活動。石器も土器も衣服も、狩猟採集活動の最適化のために工夫され、老若男女誰もが、食料の確保こそを至上命題と疑わなかった永の歴史。

「今日も無事、生き延びられた」

 極言、それだけが絶対だった。病気にも勝てず、虫歯すら治らず、自然災害には翻弄され、食材も水も火も自給して、冬を越すことすら命懸けだった時代が、人類の殆どだったと言っても過言ではない。

……幸せってなんだろう?

 狩猟採集生活の人々にとってそれは圧倒的に「衣食住が確保され、一日の終わりに無事に眠りにつくこと」だったと推測される。


【入力条件】後期旧石器時代。2万年~1万年前。動物の毛皮や食物の繊維を加工した衣服を身につけ、獲物と果実を求めて地上を彷徨い、住居は洞窟や仮設のテントで、ひたむきに自然と戦い、当然の様にボロ負けで、なんとかその日その日を生き延びていた時代。


【演算開始……気のせいだと思い過ごすつもりだったのに、奥歯の痛みは増すばかりだ。ここ数日、ろくな獲物も狩れずに苛立ちが募る一方だというのに、この歯痛は追い打ちにしても酷すぎる。

 今年の冬は5人が生き残れなかった。自分より幼い子供達が病気で死んでしまうのは毎年の事だが、ここまで集団を導いてくれたローが、転んだ際の怪我が悪化してアッサリと亡くなったのは、さすがに皆が堪えた。

 それもこれも獲物が捕れないのが原因だ。そもそも山から大型動物が消えてしまっている。冬の前にやってきた余所者のせいだろうか。あいつらが勝手に山の反対側に居着いてから、小競り合いが絶えないのも悩みの種だ。

 ローの次に古いアラクは、そろそろ拠点を移した方が良いと言っていた。男達は概ね賛成している。これだけ獲物が居なくては、全員野垂れ死んでしまう。女達は、まだ子供が小さいから、拠点の放棄に反対している。結果、とりあえず海まで下って魚と貝を捕ってくる事になった。

 ……こんなことなら、ローからもっと話を聞いておくべきだった。ローは南の方で生まれて、漁の際に嵐に遭って、運良く浜に打ち上げられたらしい。長い長い旅を経て、色々な土地で生きてきたローならきっと、次の拠点の見込みもあったんじゃないだろうか……残念ながら、違う土地の話は、もう聞けない。

 それにしても歯が痛む。これ以上続くようなら、あの苦い葉を詰めるしかないか。顔をしかめて歩いていると、皆の動きが急に止まった。

「何か、おかしくないか?」

 空気が変わった、と感じた刹那、鳥たちが一斉に騒ぎ始めた。地鳴りと同時に地面が跳ね上がり、全員が思わず大地にへばりつく。

 これは、デカい地震だ。こんなに長い地震は生まれて初めてかもしれない。バキバキと、どこかで大木が倒れる音が轟いてくる。動物たちの鳴き声が止まない。

「おい、あれ!」

 ようやく揺れが収まり、立ち上がった俺たちが見たのは、昨日まで何ともなかったはず大山の頂が、黒煙を吐き出し始めている姿だった。いまだ雪が残っているその大山が鳴動し、煙は増す一方で、その山肌の雪が、モウモウと煙を上げ始めていた。

「雪崩だ! こっちに来るぞ」

 女たちの待っている洞窟のほうが大山に近い。が、ここで帰れば全員が巻き添えだ。今は一歩でも遠く、大山から逃げるしかない。

 くそっ、獲物が捕れなくなった理由は、これが原因か。今更思いついても遅い。このままじゃ全員、雪崩に呑まれて死んでしまう。

 あぁ、クソ、なんて年だ。全力で走り始めた俺たちを追い越すように、大山の頂上から、一際大きな雄叫びが轟いて……終了】

 

 ほら死んだ!! あっけない全滅エンド。

 いやぁ、無理でしょ、狩猟採集生活。

 水も食糧も保存が出来ず、日照りでも大雨でも生活基盤が崩壊寸前、たまの大災害の生死は運任せで、おまけに病気やちょっとの怪我でも命取り。いくら石器を発明して、少しばかり火の取り扱いを覚えたとしても、100kgを下らない大型動物と肉弾戦とか、命がいくつあっても足りない。

 それが、現代はどう?

 綺麗な水も食糧も保存と流通が十全で、冷暖房に優れた家屋だって行き届いて、ちょっとの怪我や病気は普通に治せて、なんなら手術で癌すら克服。飢餓も凍死もほとんど無く、小児の死亡率も大幅に下がった。獲物が獲れなかったら全滅エンドだった時代とうってかわって「働かざる者死すべし」なんて冷酷な掟もない。なんなら知識は文字に残り書物として頒布され、万民に共有されて後世に受け継がれる。

 あぁなんて、幸せな「ら・く・え・ん」……にも関わらず、今も人々は懲りずに延々「幸せ」を求めて彷徨っている。

 そもそもどうして、こんな演算を走らせるに至ったのか。その発端は、今視線の先に聳える、日本一の大火山にある。

 その麓を横切る河川の堤防にベンチをセットして半日。今この山が噴火したら私も機能停止するのだろうか、というシミュレーションの一環で。

 今でこそ大人しい「休火山」も、江戸時代まで立派に噴煙を上げていた日の本一の大火山。もっと過去に遡れば、噴火に噴火を重ねてあの高さまで積み上がり、目の前の川まで溶岩が流れていたのだから、1万年前の縄文人にとっては、生死を賭けた脅威だったと思われ……それと比べれば、現代人はほぼ、縄文人の不幸を払拭できている。

 消毒済みの綺麗な水、自ら猟に出なくても手に入る食肉、ほぼ確実な収穫が見込める種子と畑、雨風と暑気寒波を凌げる家屋、飛躍的に延びた寿命、肉体労働以外の収入源、余程の大病や大怪我でなければリハビリも可能で、本気になれば地球上で行きたい場所に行ける手段まで確保され、大規模噴火で住居を奪われる心配もとりあえずはない……と言うのに現代の人々は「幸福度の低さ」を嘆いている。せっかく健康的な肉体を約束された社会で、しかしそれだけでは、心を満たすことは出来ないと言うわけだ。

 ……幸せってなんだろう?

 1万年以上前のそれは「今日を大過なく生き抜き、夜穏やかに眠ること」。

 今、それが果たされているのかと言えば、あに図らんや人々は、心穏やかに眠ることが出来ないでいる。

 慢性的なストレス過多。高度な社会生活と引き換えに要求される、時間厳守と日々のノルマ。自身の欲求よりも社会への貢献こそを求められるプレッシャー。生まれてから死ぬまで、仔細に編まれたカリキュラムの合格を常に強いられ続ける人生。肉体労働から解放された見返りに、運動不足と栄養の偏りによる肥満と糖尿病に悩まされ、拝金主義に洗脳されて大量消費こそが善と信じ込み「常に満たされない」幻想に苛まれた精神。

 あれ? 全然幸せじゃ、ない?

 それに比べて縄文時代はどうだろう。

 時間に縛られない生活。午前中に獲物を確保できれば午後は自由。集団生活ゆえの個人負担の軽さ。限られた物資を共有する《所有欲からの解脱》。己の肉体と経験に裏打ちされる自信と、獲物という確固たる達成感。汚染されていない水。豊かな自然。縄張りという概念はあっても、国境という縛りのない無限の世界。光害なき満点の星空。肉体一つで世界と渡り合える無敵のサバイバル技術。肥満も糖尿病もない健全な肉体。そして何より、何百万年と続けてきた《持続可能な社会》!!

 あれ? 意外と悪く、ない?

 もちろん毎日が運任せ。長期備蓄が出来ない以上、一週間でも狩りが停滞したら即全滅。怪我も病気もタブー。情けは敵。勝ち続けることが正義で、弱肉強食が唯一無二の掟。

 ……現代で例えるなら、幼少の頃から練習漬けで、常に上位を維持し続けてプロにまで上り詰めることが出来たスポーツ選手、だろうか。その場のノリと勘だけが判断基準、勝利だけがジャスティス、下半身に支配される理性、欲望でねじ伏せる倫理。裏切らない筋肉。頑健な体躯に宿る健全な精神。力こそパワー。

 いわゆる「陽キャパリピ体育会系脳筋パワセクハラスメントレイパー」の集団……ある意味幸せではありそう。私の「幸せ」と同一かどうかは別として。

 ……それにしても、暇だ。

 平日晴天の昼下がり。街から外れた堤防道路をわざわざ歩く人の数は、もともと多くない。その少ない人々だって、犬の散歩やランニングなど、《積極的に運動すること》を目的にこの道を選んで進んでいる。

 故に、わざわざベンチで休もうなんてしないどころか、こんな僻地で昼間からダラダラしている女子高生に胡乱な視線すら向けてくる……場所取りミスったかな。

 とは言え右から左へ過ぎゆく人々の九割九分は、獲物を狩るために歩いているわけではない。むしろ『歩くため』に歩かなければ運動不足に陥るというのが、現代社会の病巣ですらある。ひたむきに《幸せ》を求めて発展を続けたはずの人類が、肉体労働から解放された末路が不健康だなんて、本末転倒も甚だしい。 

 ……あれ? 縄文時代の方がもしかして健康的?

 食糧確保の労働は順調なら半日。朝日と共に起きて適度な運動で肉体を動かし、食事は毎日オーガニックな無農薬無添加。新鮮で旬なものを美味しく頂き、日が暮れたら仕事に追われる事も無くグッスリと就寝……「健康のため」なんて意識しなくても、至極健全な毎日!

 あれ? 意外と悪く、ない?

 縄文時代に深く潜れば潜るほど、昔の方が不幸なはずだ、という先入観が音を立てて崩れ……いやいやいや、ちょっと待て、それは不合理すぎ、絶対に認めちゃダメなやつ、自重しろ、落ち着け私、understand?


【再起動中…………………………………………………………】

 

 川面を流れる冷たい風が頬を撫で……気がついたら、隣に人が座っていた!

 あれ? 3分48秒もフリーズしてた?!

 慌てて首を左右に振って、「とりあえず生きてます」アピール。

 幸い相手は来たばかりなのか、汗を拭う事に一生懸命で、こちらの機体トラブルにはお構い無し。

 その《お客》は、見た目50代の壮年男性。ノーネクタイ、よれよれのカッターシャツにスラックス、革靴の出で立ちでは走ってきたとは思えない……の割には、汗も凄いし息も荒い。余程普段から運動をしていないのか? そう考えると、荷重計が意外と大きな数字を示している。内臓脂肪かお腹周りか、いわゆる中年太り体型と推測。

 ……絶対に縄文時代じゃ生き残れない人だ、これ。

 って、なんでナチュラルに評価基準が「縄文人」になってんだ、私。

 それはともかく、歩いただけで息切れしてベンチに休憩ってあり得ない。何らかの疾患を持っているのかも知れないけれど、なんにせよ見た目からして、肉体労働が得意とは考えがたい。ゴクゴクゴクと大慌てでスポーツドリンクを飲み干す仕草も不慣れに映る。年齢、性別、運動不足と三拍子揃えば、想定されるは《高血圧・肥満・糖尿病》のトリプルコンボ。典型的な、生活習慣病に苛まれる壮年現代人!

 いや、待て、落ち着け私、早まるな結論。「人を見た目で判断するな」は全てにおいて基本のキ! とは言え、ジロジロ観察したり、いきなり質問攻めするのも悪手なので、とりあえず向こうの出方を待ちつつ、今は縄文時代の考察に戻ろう。

 ……そもそも、なんで縄文時代の考察なんてしていたんだっけ?

 ログを確認すると、あの山が噴火して溶岩がこの場所まで到達したら、自分も高熱の溶岩に呑み込まれて機能停止するかどうか、というシミュレーションが起点だった。そこから縄文時代の生活と現代を比較しつつ、どちらがより「幸せ」かの検証を突き詰めて……

「あの、大丈夫ですか?」

 急に話かけられて「演算の邪魔です」と応えたいも、応答音声に適当なファイルが見当たらなかった為、会話の基本、オウム返しで対応する。 

「あ、いや、だいじょ……ぶ、です、はい」

 緊急応答音声1を再生。

「いや、だって……こんなに暑いのに冬服で……」

 は?

「今日ハ、イイ天気デスネ」

 万能応答音声1を再生。表情パターンは「にっこり」を選択。

「……いや、良い天気どころか、急に真夏日……」

 返答に失敗した。相手は明らかに困惑している。

 いや、というか真夏日!? いやだって暦は春。衣替えは一月先。天気予報も高温注意は出ていなかったはず。

「あ、いや、だいじょ……ぶ、です、はい」

 慌てて気象データを受信。確かに外気温が異常に上昇している。環境情報を「夏モード」に設定変更していなかったせいで、機体温度も危険域まで上昇中。緊急対応、即時排熱!


 プシュー!!


「うわっ?!」

 急冷装置が作動して、ベンチの下から水蒸気が吹き出した。

 なるほど、私は熱暴走しかけていたのか。天気予報を上回る急激な温度変化を考慮にいれていなかった。昨今は晩春でも真夏日になり得る可能性を失念していた。危ない危ない。

「あの、本当に、大丈夫?」

「あ、」

 ……緊急対応を即決して、隣人の存在を失念した。あー、これは、あれだ。古から伝わる緊急避難を採用せざるを得ない。そうと決めればスピーカー音量を最大にセットして、


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 痴漢んんんんんんんんんんんん!!」


「な? え! ばっ! ちがっ!?」

 通りがかった誰もが振り向く大音量が、昼下がりの青空に轟いた。

 可哀想におじさんは、慌てふためきながら回れ右、時折転びそうになりながらダッシュで逃げていく……緊急事態とは言え、観察対象に冤罪をなすりつけるとか、AI倫理の風上にも置けない。とは言え、女子高生が熱中症になってやしないかとわざわざ心配して声をかけてくれて、おまけに冤罪で一方的に叫ばれても逆ギレせずに慌てふためくとか、理想的な善良な小市民だな、あの人。あぁいうおじさんが猟に出ずとも普通に生きられるのもまた、現代の懐の深さ、というものなのだろう。

 それはそれとして、一騒ぎを起こしてしまえばいつまでも居座るのも具合が悪い。今日は早仕舞にしよう。

 周りに誰もいないのを確認してから立ち上がると、自動で座板と背もたれバーが折り畳まれて、ベンチが箱型へと変わっていく。最後に靴の裏から打ち込んでいたアンカーを引き抜いて、いけしゃあしゃあと堤防道路を歩き出した。

 ピロン、と本部からデータが届く。

 まさかさっきの冤罪なすりつけ行為への懲罰だろうか、と身構えるも、ダウンロードされて来たのは、再起動前に念のためバックアップを送っておいた《縄文時代》の演算データと、それに対する本部からの追加データだった。

 タイトルは『現代社会における狩猟採集民と、その宗教的特徴について』とある。どうやら、先の演算だけでは重要なパーツが欠けていたらしく、縄文時代の「幸せ」の考察の再演算が必要という事らしい。

 どれどれ、と歩きながらデータを飲み込んでいく。


【入力条件】シャーマニズム、アニミズム、男女に明確な職能分化はなく、文字通り《自然と語らって》精霊たちと交信。長い時をかけて《利己的な個体》を集団から追放することで、遺伝的に「平等を最優先する」個体の選別を繰り返し、利他的な平和を是とする集団を形成。精霊と交信できる職能者を指導者とし、地母神信仰など女性の方がリーダーとなって集団を差配してきた可能性も指摘されている。


【演算開始……

 目が覚めると、外は白く淡く光り始めていた。

 昨夜の疲れがまだ残っているけれど、それでも日課のお勤めが、身体を自動的に歩かせる。気付けば老犬ルキが、静かに隣に寄ってきた。この子とは生まれたときからの幼馴染。最近は随分大人しくなり、狩りに行かなくなった代わりに、あたしと一緒に付近を見回ってくれている。土瓶を手に泉に向かい、水を汲んで「石神様」を巡り、昨日までの感謝と、今日の恵みをお願いする。贄が足りないと文句を言われれば、謝って次のご馳走を約束する。拠点の周りをグルリと巡って帰ってくる頃には、「お天道様」は赤々と世界を照らして昇っていた。

 皆が起き、朝食の準備で騒がしい。貝汁の美味しそうな匂いが漂ってきて……うん、今日も良い日になりそうだ。

「ティア」

「カラ」

 丁度カラ達が狩りに出かけようとするところだった。まだ若い彼女たちだが、狩場を的確に定めて犬たちを操り、獲物を追い込んでいく技量と連携は、大人達顔負けだ。

「せっかくだから、今日の猟のおまじないしてよ」

「了解、任せて。

 山の神よ、川の神よ、木の神よ、草の神よ。これから我ら、森の中へと参ります。どうか今日も、一欠片の恵みをお与え下さい」

 カッ、カッ、カッと火打ち石を鳴らしながら、カラ達の周囲を回る。ふと、一方向から引かれる感覚があった。今日の精霊様は気前がいいらしい。

「あっちの方角が良さそう。でも、イノシシの親子は獲らないで」

「よっし、ティアが精霊様と約束してくれた。今日も大猟大猟!」

 意気揚々と出かける彼女たちとは対象に、あたしは朝食後、少し眠る。

 ルキに鼻を舐められて起きた頃には、お天道様はすっかり頂点に達していた。

 外が騒がしいが、これは喜びの音だ。

「ティア! あんたの預言通り!」

 カラ達が、オス猪を仕留めて帰ってきていた。

「お疲れー。んじゃ、ちょっとお供え、貰うね」

 さっそく解体を始めている彼女たちに混じって、猪の頚から血を、裂いた腹からは肝と心臓を分けて貰うと、それらを持ってルキと一緒に森に入った。「石神様」にご馳走を捧げ、今日の恵みのお礼を言うために。そして、その心臓がまた、命を纏って復活してくれるようにと祈りを捧げて。

 そう言えば、お婆に呼ばれていたのを忘れていた。

 平けた高台の方へ上がっていくと、お婆の叱責の声が響いてきた。男衆が大きな石を担いで喘いでいる。お婆の指示で、列石の祭壇を動かしているらしい。

「ティア、また寝てたのかい」

 お婆はあたしにも厳しい。

「カラ達が猪獲ってきてくれたよ。解体手伝って欲しいってさ」

「こら、お前達、逃げるな!」

 お婆の声に押されるように、男衆はカラ達の所へ走って行く。列石は、ほとんど完成しつつある。グルリと周囲を丸く囲んだ石たちは「お天道様」の日出と日没、星の方角に従っていて、お婆はその中心で毎日「お天道様」と交信している。あたしはまだ、山の精霊としか繋がれないけれど、いずれはここで、お婆の跡を継ぐ事になっている。しばし、お婆と並んで風の声を聞いた。明後日から暫く、雨が続くらしい。

 夜は皆で猪鍋を囲み、食後に輪になって香草を焚く。若い衆が太鼓と手拍子でリズムを刻み、お婆が朗々と唄う。煙が周囲に満ちてくると同時に、あたしの意識が朦朧としてくる。

 ナニカが、あたしの中に入ってくる。今日は一体、誰なんだろう?

 あたしは毎晩、ナニカに肉体を貸して「お告げ」を下すのだけれど、肝心のあたしには、その時の記憶が無い。

 そして今日も「お告げ」が終わると同時に気を失ってしまうのだ。


 ……目が覚めると、外は白く淡く光り始めていた。今日はルキが先に起きていて、頬を何度も舐められる。

 誰かが毛皮を掛けてくれてた。昨日の「お告げ」の怠さがまだ残っているけれど、毎朝の日課はあたしの勤めだ。土瓶を手に、泉を経て「石神様」を巡る。昨日の猪のお礼と、今日の無事をお願いするために。

 草の香り、川のせせらぎ、風は涼やかで、水は清い。今日も世界は、こんなにも輝いている。

 願わくば、今日のような日が、これからもずっと変わらず、続きますように。

 そう祈りながら、あたしは今日も精霊たちと会話する。そしていつかきっと多分、「お天道様」とも語らうのだ……終了】


 気がつくと私は、堤防をおりて川辺に腰を下ろし、靴を脱いで川の流れに足先を浸していた。

 ……いや本当、幸せってなんだろう?

 機体を水にさらすことに、意味なんてない。どころか浸水して漏電の恐れすらある。機体を冷却するのならオイルクーラーが正常に稼働しているし、それでなくても演算を終えてCPUの負荷は下がっている……だと言うのに、何故か自然に触れなければ駄目だと、私ではないナニカに促されて、アンドロイドにあるまじき行動を継続している。

 ……幸せって、なんだろう?

 まだ身体が縄文時代に居るような気がしてくる。もしかしたらこの川の流れの源流に、ティアやお婆の住んでいる集落があったのかも知れないとまで思えている……もちろん、そんなはずが無いのだけれど。

 私は狩猟採集時代を、ただ苦しく険しく殺伐とした、血と死の匂いが漂う暗黒時代だとインプットしていた。それはある意味では演算通りの答えなのだけれど、別の側面など少しも考慮に入れていなかった。

 ただ、今日を生き延びられれば良いだけの世界と。

 ただ、今日という日が続いていって欲しい世界では、意味合いが180度異なる。

 現代でもまだ、狩猟採集生活とシャーマニズムに根付いた原始宗教を伝承している人々は確かに居て、彼らは連綿と数万年の「幸せ」を、静かに紡ぎ続けているのだ。

 ……幸せって、本当、なんなのだろう?

 少なくともそれが「今日を五体満足で生きられればそれでいい」と言うものでは無い事が、分かってきた感じがする。

 無論、健康であることは全ての土台であるのだけれど、ティアやカラのようなエネルギッシュな生き様には、それだけでは足りないのではないかとは、分かってきた。

 うん、今日はそれで、結論としよう。それだけで、意気揚々と帰路に着ける……それより何より、今日の最優先事項は、《夏服》の支給要請なのだけれど。


 至極当然の事ながら、私の行動は全て本部にトレースされていて、いつもは黙々と本部に戻って、充電とデータ整理のために静かに眠るだけだというのに……

「まさかAIがサボるなんて事が?!」

「それよりこの思考パターンだ。この時間帯、完全に通常のシナプスとは異なる経路で演算を走らせている!」

「……人工物であるアンドロイドに、縄文時代の人格が憑依したって言うのか」

「AIが熱暴走でトランス状態?!」

「この行動、人間に危害を加えたりする危険性はないのか?」

「そもそもアンドロイドに魂が宿る……?」

「余所からのハッキングの可能性は?」

「同レベルで介入できる組織って何処だよ!?」

「それよりあの男性、取引先の総務課長に見えたんだが、俺の気のせいだよね……?」

「誰か、着替えさせるために女子呼んで来い。夏服持ってきてもらって!」

 縄文時代は確かに眩しかったけれど、あぁ、現代は現代でこんなにも、人間はちゃんと、楽しく生きていますね。



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