第37話 焦燥
ふっと目を覚ます。最近すっかり見慣れてしまった天蓋が見える。
「いつの間に……」
私は寝台に横になっていた。陛下の来訪の後、あのまま気を失ってしまったようだ。
「殿下と、結婚……?」
自分の置かれた状況を思い出して、胸がムカムカとした。水を飲もうと起き上がると、いつのまにかまた薬指にはめられていた大きな緑石の婚約指輪が目に入る。枕元のトレイには同じく緑石の髪飾りが置かれていた。
泣きたい気持ちがこみ上げてくる。これまで、何度もゲームと同じ場面を繰り返してきた。なのに、最後の最後で、一番大切な婚約破棄が破棄されるなんて。竜の襲撃も未だにない。ただ、遅れているのだろうか?
――どうして?
私は指輪を抜いて床に投げつけたけれど、厚い絨毯は音もなくただ指輪を受け止めた。その緑色の輝きを見下ろす。王家と公爵家の血盟の証。殿下の美しい瞳と髪の色を映した、小さくて重たい私の枷。
「これが現実なの?」
所詮乙女ゲームの世界と甘く見ていたのか。確かに、私は聖魔法を横取りしたし、当て馬としての悪役令嬢の役割を放棄していた。でも、少し行動を変えたくらいでは揺らがないと。私が婚約破棄される未来を、『物語の強制力』を信じていた。だって、泉には泉の精がいたし、資料室には秘密の通路があった。ルナは学院創始者の後継者になり、その莫大な遺産も継いだ。婚約破棄劇場だってあった。全て、ゲームの通りに。
でも、ここは現実で。王、王妃、父公爵、宰相、その他。権力を持った大人たちが自分達の思惑に向かって物事を積み上げていく。ゲームで王子が婚約破棄できたのも、結局、聖女たるルナを王家が手に入れるべくしておこったことで、そこにはゲームのお約束やご都合主義、『真実の愛』なんてなかったのかもしれない。
ゲームの流れを知っているから。前世の記憶があるから。聖魔法を手に入れたから。私は上手くやれていると思っていた。確かに一度はゲームの設定を使ってうまい具合に逃げ出すこともできたのに、結局は連れ戻されて一人塔に閉じ込められて。
「私は、無力だ」
これまで、親の権力で作られた籠の鳥だった。鳥かごの外のことを助けてくれるシグルドがいなくなってからは刺繍小物を売ることすらかなわず、逃亡準備といってもたいしたことはできなかった。それでも、前世の記憶を利用して自分の力で逃げられたと思っていたのに。
“日に焼けたこともない令嬢が一人で何ができる”。
心配そうな顔のシグルドが思い浮かんだ。今になればわかる、シグルドの言葉は正しい。私は、私がわかっていなかった。シグルドがあんなに心配してくれていた意味が、今になってようやく理解できるなんて。私はバカだ。これまで認められなかった、目をそらしていたことを受け入れなければ。だって、嘆いている暇はない。
「うかうかしていたら、本当に殿下と結婚させられちゃうのよっ」
赤い髪の冒険者、最大の味方と大きく隔てられ、一人で比較的自由に行動できる学院という場所も卒業で失った。婚約破棄はされなかった。竜の襲撃がいつ起こるのかはわからない。高い塔に閉じ込められて、二か月後には殿下と結婚式。これが、今の私の現実。だけど。
私はぎゅっと目を瞑り、パシンと両頬を叩く。
「あんまり待たせるわけにはいかないんだから」
絶対にあきらめない。殿下と結婚なんてまっぴらごめん。どうにかして必ず、ここから逃げ出して見せる。隣国の国境の街で待つ、彼のもとへ。




