第34話 逃亡
今こそ、決行のチャンスだ! 内心の興奮を隠して、私は俯きがちにひと気のない廊下を進む。式典が始まってからまだそれほど経っていない。この後には祝賀会もある予定だから、自宅からの馬車の迎えの時間にはまだ大分ある。
「サロンに行こう!」
決めて、私はとうとう走り出した。
城からの秘密通路にこだわらない。まずはサロンに隠していた地味なワンピースに着替えてしまおう。行動の自由を確保するんだ。
息を弾ませて駆け込んだサロンには、いつものメイドはいなかった。本来は行事の最中の時間だから、厨房か使用人控え室かどこかにいるのだろう。私は手早く着替えた。修道院に寄付する筈の飾り気のない丈夫なワンピースは動きやすい。そしてやはり寄付予定だったエプロンを身に付けた。それだけで、いかにも勤務中の使用人らしくなる。それから髪を簡単に二本の三つ編みにして、肩口でバッサリ斬り落とした。床に落ちた髪束を布で包んで肩掛けカバンにしまう。置いて行けば髪を切ったことがわかってしまうし、長く美しい髪は売ればひと財産になる。重要な逃亡資金源だ。
こちらも寄付用の、いつも使用している絹にくらべれば随分と厚手の靴下を履いて、隠しておいたブーツに履き替えた。脱いだ制服と革靴もカバンにしまう。後からかかるだろう追手には、「長い銀髪で、貴族学院の制服をきた令嬢」を捜索してもらう。その間に「よくいる巡礼者の町娘」として逃走距離を稼ぐ作戦だ。緑石の指輪と髪飾りも外し、街中で銀の髪が目立たないようにストールを頭から被って両端をぐるりと首に巻く。市井では埃や日差し避けに巡礼者や年配の女性がよくするらしい。これもシグルドに教えて貰った。
「服装よし、髪よし、荷物よし!」
姿見の前に立ち、最後の確認をする。鏡の中の自分は、侍女どころかメイドでもない。貴族学院の下働きといった風情だ。
「ばっちりね! それでは仕上げに」
私は胸の前に手を組んだ。
「私の逃亡に祝福を!」
ふわりと光の粒子が広がって、ゆっくりと雪の様に降りて私の体に吸い込まれていく。ほわりと体が温まって力が抜けて、自分はどれだけ緊張していのか気づかされる。
「よし、いくわよ」
そっとサロンの扉を開けて、廊下の左右を伺う。先程と同様にシンと静まり返ったままだ。学生も職員も講堂に集まっていて、まだしばらくは殿下とルナの『真実の愛』に夢中になっているのだろう。
それでも用心して日頃あまり人が通らない経路を選びながら進む。裏口が見える建物の陰で足を止めて様子を伺った。おじさんが一人、周囲の掃除をしている。私はムニムニと顔の準備運動をして、それから一つ大きく深呼吸した。ニッと笑顔を作り、足早に裏門へと歩く。
「お疲れ様っ」
バクバクする心臓を宥めながら、屈んで地面を佩いているおじさんの横を何食わぬ顔で通り過ぎた。
「おーう、お疲れさん」
背後から、間延びしたおじさんの返事が聞こえる。せわしくなりそうな足と呼吸を、意識して抑える。自分の心臓の音がドキドキと大きく耳につく。あと少し、もう少し。そして。
――抜けた!
裏門を超えて、街路へ続く細い道を歩く。怪しまれるから走ってはダメ。焦る心に言い聞かせながら、とにかく足を動かして。ようやく大きな通りに合流した。人や馬車が行き交う街並みに紛れることができて、思わず足を止め、息を吐きだした。私を追い越していく人が訝し気にチラリとこちらを見たのに気づき、私はまた何ということはないという顔で人の流れに紛れて歩き出した。
──まだ安心するのは早い。
自分に言って気を引き締める。街門を抜けて、水車小屋の荷物を持って、小舟に乗って。まだまだ先は長いのだ。でも、まずは貴族学院を抜け出せた! 御者も侍女もいない、初めての一人きりの街歩き。自由だけど、心細さはある。でも大丈夫、今の私は、例えるならばお使いに出たどこかの使用人。昼間の王都ならば何の変哲もない存在だ。シグルドに教えて貰った通り、細い路地に入り込まず、大通りをまっすぐに街門までいけば怪しまれることも、危険に巻き込まれることもないだろう。
しばらく歩くと街門が見えてきた。まだ昼前のせいか、出入りはあるけれど混んではいない。入るほうは荷物や書状のようなものを確かめられたりしているけれど、出るほうは自由だ。私は人の流れに乗ったまま、すんなりと街門も突破できた! 大体はそのまま街道に足を進めていくけれど、私は流れから逸れて水車小屋のある林に向かった。
林の入り口で足を止め、サロンから持ち出してきたマントを羽織り、フードを被った。これは、ワンピースを三つ程解いて自分でそれっぽく作ったものだ。街中を抜ければ、一目で女性とわかる恰好をしていないほうがいいとシグルドが教えてくれた。周囲に人目もなくなったので、私は水車小屋に向かって駆けだした。竜が現れればこの林にも避難してくる人がいるかもしれない。その前に物資を回収して巡礼者へのなりすましを完了させておきたい。
「見えてきたっ」
しばらく走ると、水車小屋が見えてきた。ふと、あの日、シグルドから見えた景色を今、私が見ているのだと思って。キュっと胸が締め付けられるけれど、今は感傷にひたっている暇はない。私は静かに水車小屋に入り、扉に錠をした。
「ここまでくれば……」
息を弾ませ、腰が抜けたように扉を背に座り込む。その姿がまるで、あの日の自分のようだとまた僅かに胸の奥が痛んだ。たすき掛けしたカバンからコップを取り出し、水魔法で満たす。ぐいっと飲み干して大きく息をついた。
「あの日は別れだったけど、今日は旅立ちなんだから!」
あの日遠ざかっていったシグルドを追いかけて、今日からは私が近づいていくのだ。両の頬をペチリと叩いて気を取り直し、私は早速屋根裏にあがる。部屋の隅に置かれた木箱を開けると、背嚢や巡礼装束、杖に携帯食などの物資がぎっしりと詰まっている。
「こんなにたくさん、背負えるかしら」
手にとった巡礼マントがとても軽くて柔らかくて。心配性のシグルドが、私を思ってあれもこれもと準備してくれたことが伝わって、泣き笑いの顔になってしまった。
「ありがとう……」
遠い街のシグルドに、自然に御礼の言葉がこぼれた。
「さ、急がなくちゃ」
気合を入れ直して、私は素早く身支度を整えた。今着ているワンピースはそのままでいい。シグルドが用意してくれたズボンをスカートの中に着込み、庶民的なブーツに履き替える。小袋に用意された灰を顔と手、それから髪にまぶしていく。ここまで持ってきた制服と靴は荷物になるので、秘密の通路の片隅に隠した。緑石の指輪と髪飾りも一緒にここに置いて行く。売ればお金になるだろうけど絶対に足がついてしまうし。なによりこれまでの私の枷、しがらみの象徴とすっきりおさらばするのだ。
清々しい気分で背嚢を背負い、巡礼者のマントを被り、杖を手にすれば準備完了だ。だけど……。
「どうしよう」
いつでも出発できるけれど、では、いつ出発しようか。竜の襲撃が始まったら街に戻り、執行部に祝福を送ってから混乱の中を逃げるのが一番いいのだけれど。
「竜の襲撃、本当にあるのかなあ」
ここまで逃げてくる途中、いつ竜がやってくるかと冷や冷やしていたけれど。結局竜は現れず水車小屋までたどり着いてしまった。ゲームでは学院にルナと攻略対象が揃っている時に起きた竜の襲撃。でも、それは授業中だった。今日は卒業式で授業はない。
「婚約破棄も、なんかゲームとは違って穏便だったし」
殿下さまがルナたんを抱き寄せながら、私を指さして糾弾するようなシーンは現実には起きなかった。むしろ、太鼓持ちの独壇場。まあ、私がルナたんをいじめたり騒動を起こしたりしなかったから、そもそも糾弾するネタがなかったんだろうけど。
講堂で『真実の愛』が盛り上がっている今のうちに、小舟で逃げ出してしまえば捜索の手が伸びる前に確実に距離が稼げる。それとも、少し水車小屋で待機して夕方に視界が悪くなってきた頃に出発するのが無難だろうか。速さと秘密性に私は迷った。
「少しだけ、待ってみよう」
私は背嚢から固パンと干しブドウを出して食べた。それから、荷物をそのままに水車小屋を出て周辺の様子を伺う。街道の傍まで戻ってみたけれど、慌てる人も、林に逃げ込んでくる人もなく。騒ぎが起きている気配がない。
私は水車小屋に戻った。
「竜はこないのかもしれない」
本当ならばとっくに来ているはずの竜。今日じゃないのかもしれない。明日かもしれない。もっと先かもしれない。ルナの魔法を横取りしてしまったから戦う時には協力しなくちゃいけないと思っていたけれど。だけど、いつまでもここにいたら見つかって連れ戻されてしまうかもしれない……。
「よし、行こう!」
私は決めた。執行部のフォローについては、ゲームでは竜の襲撃の時にルナが祝福を一度かけていた。私は以前、図書室の窓から三日間、三度執行部の皆さんに祝福をかけた。大丈夫、きっとゲームの三倍効き目が出ていると思うことにした。執行部の皆さんには申し訳ないけど、せっかくここまで順調に逃げたのに連れ戻されるのは恐ろしかった。
「執行部と王都の皆さんに祝福と治癒を」
胸の前で手を組んで、私は念のために聖魔法を贈った。王都が守られ、誰も怪我のないように、みんなの無事を祈る。水車小屋からだし、あて先が多すぎてどれだけ効果があるかはわからないけれど、逃げ出す私がせめて今できることだったから。
それから改めて私は背嚢を背負って杖を手にした。小舟に乗り込み、もやい綱を外す。小舟に積んであった竿でツンと小さな船着き場を突くと、小舟はゆっくりと岸辺を離れて流れ始めた。徐々に川幅が広くなり、小舟は川の中央を静かに流れていく。流れも大分速くなってきていた。
「夕刻前には船を降りて、どこかの宿場で宿を取ろう」
進度は川の流れに任せ、私は持ち出してきた地図を片手に時折現れる橋を数える。もう、王都から三つ離れた街の近くにまで来たようだ。
柔らかな日差しとそよかな風。静かな川面を滑るように走る船。川岸から見とがめられることもなく、順調に順調に王都から離れていく。シグルドに近づいていく。
「この様子だと、夕方までにはあと二つ先の街にたどり着けるかも」
目立たないように、橋からは少し離れたところで船を降りよう。そうして街道を歩き暗くなる前に街に入って宿を取る。明日は起きたらすぐに巡礼馬車に乗って、ご飯は馬車の中ですませればいいね。隣国に入ったら巡礼馬車を降りて、もうすぐ、シグルドに会える。大丈夫、冒険者ギルドに行けば連絡がつくといっていた。『待っていたよ』と、シグルドがきっと、いつもの優しい笑顔で迎えてくれる。元気にしているだろうか、グラムはものすごい魔剣になってしまっているんじゃないだろうか。私に会って喜んで、グラムがボッと火を吹いてシグルドが驚いて……。
不安を紛らわすように再開後のあれこれを思い描いていた私は、ここまでの緊張感や疲れで少し眠気を覚えていた。これまでの順調な道行と、岸からは手の届かない船に乗ったことで油断してしまったのかもしれない。眠ってはいけないとわかっているのに、地図を片手にうつらうつらと楽しい再会の夢に意識を飛ばしていた時。船が何かに引かれるように、急に加速したのを感じた。
「なんでっ」
驚く私などお構いなしに、船がぐんぐんと加速していく。せめて方向を変えてみようと、櫂を漕いでみたけれど私の力ではどうにも抗えない。そうこうしているうちに櫂が流れてしまって、私はどうすることもできなないまま舳先を掴んでただ前を見つめていた。そして、意思をもったように進んでいく船の先には、兵士の一団が王家の旗を掲げていた。




