第32話 王子と側近
もうすぐ学院の昼休みも終わりに近づいた頃。執行部の部屋の扉を潜ると、書類や筆記具の広げられた机からネルソンが立ち上がり礼を取った。
「勤勉だな、昼休みくらいは休んだらどうだい?」
「恐れ入ります」
座るように声をかけても、ネルソンは僕の机の横に立って椅子をひいてくれる。それから、部屋付きのメイドにお茶の準備をするようにいった。同い年の宰相の子息ということで幼い頃から学友として長く付き合っているが、その関係性に甘えることなく臣下としての立場を弁えている。ヴィクトリアに剣を教えていたという冒険者の男への対応に迷っていた時も、お任せくださいと胸を叩いてくれた。宰相である父親によく似て、何から何まで本当に気が利く男だ。
「それで、本日はいかがでしたか?」
僕の机の斜め前に立って、ネルソンがいう。僕が即位をしたら、ネルソンはこんな風に宰相としてずっと仕えてくれるのだろう。長い幼少期より、数年の執行部としての活動のほうが互いの信頼関係を育ててくれたのだから、学院生活は僕に大きな実りをもたらせてくれたといえる。父上に、将来王になる者に友達という存在はできないといわれている。それはとても寂しいことだけど、臣下には恵まれた。
「どうされました?」
じっとネルソンを見ていた僕に、少し心配そうな声音で尋ねてきた。
「いや、なんでもない。ヴィクトリアとはいつも通りだよ。お茶を飲みながら二人で過ごした。最近市井で流行っている菓子の話をしたら美味しそうだと興味のある様子だった。ネルソン、手配しておいてくれるかい?」
「承知しました。しかし、アーヴィング嬢のお口にあいますかどうか」
「僕の口にあったのだから、ヴィクトリアも喜ぶだろう」
子供の時分から婚約者として幾度となく二人でお茶をしてきたけれど、供される茶菓子や軽食で僕が美味しいというものは、ヴィクトリアも好物だったから間違いない。
ネルソンが少し口の端を吊り上げる。
「味はともかく、この菓子がルナの考案したものだと知れば、アーヴィング嬢の評価も変わるのではないでしょうか」
悪感情は人の判断を狂わせますから、と皮肉気な口調のネルソンに僕は首を振った。
「先日は少し感情的になったこともあったけれどね、もうすっかり元通りさ。ヴィクトリアは理解してくれているんだよ」
いいながら、扉を守る護衛騎士を僕はチラリとみた。距離があるから僕たちの会話は聞こえていないようで、ほっとする。彼は、いや僕の護衛を担当している騎士たちはヴィクトリア贔屓なのだ。公爵令嬢という出自からすればもっと高慢なところがあってもおかしくないのに、幼い頃から一途に僕のための努力を厭わない真面目な彼女は王妃としてはもとより、必ずいい妻になる、と。護衛騎士だけではなく、従者や女官など、城の者たちはそう口を揃える。
先日のちょっとしたゴタゴタがあった時も、彼らはヴィクトリアの献身を評価するようにと僕に進言してきた。執行部がルナのことで周囲に誤解されていた時、部員の婚約者たちは親を連れて家に抗議に乗り込んできたという。だが、ヴィクトリアは違った。不平不満を漏らす婚約者たちを諫め、周囲には常よりも笑顔を見せて振る舞い、己の価値を上げるために慈善活動や剣の修練に打ち込んでいた。よくできた、立派な令嬢だ、と。
わかっているんだ。僕だって、ヴィクトリアに不満などない。
ヴィクトリアはとても美しくて、教養やマナーも申し分ない公爵令嬢だ。実家の後ろ盾も含めて、将来王になる僕の妃には相応しい。父上も上手くいくといってくれたから、そうなんだろう。
ただ、僕からすると少し退屈というか、面白みに欠けるというか。物足りないのだ。それは、ルナと出会う前から感じていたことで。だけど、ルナと出会い、ただ一緒にいるだけで心が浮き立つような、何かをしてやりたいとか、笑顔が見たいというような感情を知ってしまってからは、もやもやとしていたものがはっきりとした喪失感になった。ヴィクトリアでは埋められない僕の心の隙間。
それでも、僕は王族。次代の国を背負う王太子だ。父上のいう通り、結婚は国事。ヴィクトリアとの結婚が国と王家の安寧につながる。恋をしていないだけで、別にヴィクトリアが嫌いなわけじゃない。一度は婚約の解消だなんて言い出した彼女だけれど、結局はそれも僕のためだった。僕も健気なヴィクトリアに報いてやらなくちゃいけない。
だから近頃は足しげくヴィクトリアのサロンを訪れるようにしている。昼休みなどで時間は短いけれど、学院で僕が寄り添うことでヴィクトリアの立場が強くなるという父上の助言をしっかり実行しているのだ。ルナとも執行部の役員同士として適正な付き合いができていると思う。これでいいんだ、これで。
それで、とネルソンが眼鏡をぐいっと押し上げなたらいう。
「アーヴィング嬢の執行部加入についてはいかがですか?」
「ああ、その件はもういいんだ」
「と、いいますと?」
「あれは元々、執行部員の婚約者や学院生の執行部への誤解を解くためだったからね。僕の誕生祝賀会でヴィクトリアに対する学院生たちの誤解も解けたのだからもう必要ない」
さようですか、とネルソンがあからさまに安堵の表情を見せる。家同士の関係もあって、昔からヴィクトリアに当たりがきついところがある。これから長い付き合いになるのだら、上手くやって欲しいものだ。
「失礼いたします」
メイドが茶器を僕の前に供した。一口飲んで、受け皿に戻した。
僕は嘘をいったわけではない。だけど、本当はもう一つの理由があることは口にできない。ネルソンでさえも。
今の僕はヴィクトリアを執行部に入れたくない。ルナと、人目を気にせずゆっくりと話せるのは執行部の部屋だけになってしまったから。
卒業までの時間はそう残されていない。ヴィクトリアにしっかり寄り添っているし、ルナとの距離は適切なのだから、せめてこの部屋の中でだけはルナと気兼ねなく過ごしたかった。父上だって、結婚は国事だけれど誰かを恋う気持ちを持つことは仕方ないといっていた。でも、それが貴族たちの何がしかの口実になってはいけないのだ。
だから、周囲からの横やりを防ぐためにも、僕はヴィクトリアと友好的な状況を周囲に示さなければいけない。将来王になる僕だ、本心を隠して疑われない行動をとるというのもできなければいけないだろう。
「学院に入ってからは少し距離が遠のいてしまったこともあったけれど、今ではすっかり元通りさ。いや、むしろ以前よりこまめに二人の時間を持っているかもしれないな」
公務の時のような笑顔でそういった僕に、ネルソンが探る様な目で見る。
「それでは、ルナはどうされるおつもりですか」
少し硬い声だ。
「もちろん、悪いようにはしないさ。結婚はできなくても、僕が恋をしたただ一人の人。誰よりも幸せになって欲しいと思っている」
僕はピンクブラウンの髪を映すように、机上の茶器から立ち昇る湯気を見つめる。
いずれは学院顧問となるだろうルナを、僕は王太子として、いずれは王としてしっかり支えていくと決めていた。
平民の教育を手厚くしたいという夢を語る彼女。その夢を叶える手伝いが僕にはできる。その力がある。これは平民のための施策で、実現すれば将来王になる僕の大きな成果となるはずだ。つまり、彼女の夢に協力することは、国や王家のためにもなる。
そうだ、将来的には王都の下町の再開発や、孤児院の拡充などの役職を作ってルナに任せてもいいだろう。貴族たちはやりたがらないだろうが大事な仕事だ。なにより、優しく慈悲深いルナにはぴったりだ。妃にはできなくても、側近としていつも身近に僕の治世を支えて貰えばいいじゃないか。僕の隣で。
あんなに慈善活動に熱心だったヴィクトリアだもの、民衆のための重要な施策には賛成してくれるはずだ。なんならルナの協力者として名前を連ねてあげてもいい。施しの厚い貴族は名声が高まるから、アーヴィング公爵も喜んでくれるだろう。
学院の未来を語っていたルナの笑顔を思い出すと、胸の奥がキュッと縮むように感じる。あの夜の庭園で、触れた髪の感触が指によみがえるようで、僕はぎゅっと指を握りこんだ。
──誰よりも幸せになって欲しい。
僕がルナの夢を叶えてあげることは、彼女の幸せの一部になれるだろう。なるべく大きくてたくさんの幸せを彼女に、僕は届けたい。妃にはできなくても、せめて側近としてでも手厚い保護を与えて彼女を守りたい。
日のあたる場所で、広く人々に彼女の素晴らしさを知らしめたい。そう思う心の片隅で、小さな黒い影がじくじくと僕に訴えてくる。綺麗ごとをいうな、と。彼女のためというけれど、本心では望んでいることがあるだろう、と。
妾。最初に父上から提案された時には嫌悪感があった。今も抵抗感がある。だけど、もしも。もしもルナが受け入れてくれたら、僕を待ってくれるといってくれたら。この小さな執行部の部屋のように、誰の目も届かない二人だけの場所をつくる。例えば、王領に孤児院を建てるとか。そこでなら卒業までという期限もなく、これからもずっと楽しく過ごせるんじゃないか?
妾というと聞こえが悪いけれど、僕が望むのはそんなささやかなものなんだ。それに、一度は婚約解消まで申し出てくれたヴィクトリアだ。父上の言う通り、妃として数人子供を産んだあとであればルナとのことを許してくれるのではないだろうか。
卑怯な望みとわかっているけれど、でもヴィクトリアなら許してくれるんじゃないだろうか。そう、心の中の僕がささやく。彼女は王妃というこの国で一番の女性になる。やがては次代の王の母として、長く貴族の頂点に君臨するだろう。地位も名誉も、全てはヴィクトリアのもの。だったら少しくらいはルナに目こぼしをしてくれるんじゃないだろうか。
我が国に限らず、歴史書を見れば王が妾や側室を取ることは珍しくない。王家の繁栄という点で見れば、王の血を継ぐ子供が増えることは悪いことではない。それが権力闘争に発展した場合が問題なだけだ。でも、ルナは平民で子供を押し立てて王位継承権を争うような実家がない。ヴィクトリアやアーヴィング公爵家を脅かす要因にはなりえないのだ。悪い話ではない、よな。
「本当に結婚はできないのでしょうか?」
思索にふける僕に、ネルソンの低い声が割り込んできた。
「結婚? 何を言っているんだい」
笑い飛ばそうとした僕に、ネルソンが真剣な顔つきで言葉を続ける。
「ルナは美しく聡明ですが、孤児院出身の平民です。しかし今ではその実力が学院創始者の後継として認められ、その莫大な遺産を継ぎました。惜しみなく財貨を孤児院や修道院に寄付する優しさ、慈悲深さは民衆からも大きな支持を得ています。名誉も財産も揃った。その上に殿下の寵愛を得ている。翻ってアーヴィング嬢はいかがです? 公爵令嬢という親由来の身分しか持たないではありませんか」
「それは……」
僕は、咄嗟に答えることができなかった。
「貴族の身分が足りぬというなら、アーヴィングには及ばずとも、我が家門で相応しい立場を用意することもできます」
「ネルソン、僕のためにそこまで……」
「殿下の右腕として、当然のこと」
ネルソンが恭しく臣下の礼をとってみせた。
「しかし、それでは君の家は正面からアーヴィングと敵対することになりかねない」
全く問題ないと、ネルソンが涼し気にいう。
「先日、ルナが学院の創始者になる資格を得たこと発表したのは王宮です」
頷く僕にネルソンがいい募る。
「これは重要なことです。陛下がルナを認めて下さったに相違ありません」
「確かに。だけど、父上は妾の提案はしてくれたけれど、婚約のことについては何もおっしゃらない」
「当然、アーヴィング公爵家を慮ってのこと。陛下のお言葉は命令になってしまいますからね。ですから、教会でも学院でもない、あえて王宮から発表することでその御心を示し、アーヴィング公爵家からの辞退を促しておられるのでしょう」
「そういうことか!」
ネルソンがしたり顔で頷いた。
「だが、以前ヴィクトリアが婚約解消を申し出てきたときには、上手くやれと僕が諫められたのだ」
「あの時はまだルナは成績優秀な孤児に過ぎませんでした。やはり、名誉ある学院創始者の後継ぎとなったこと、そして莫大な遺産を手に入れ、それを惜しげもなく寄付する姿が民衆から指示されるようになったことが大きいでしょう。それに、アーヴィング嬢の言葉に意味はありません。当主のアーヴィング公からの申し出にこそ実効性があるのです」
「しかし公爵は……」
ネルソンが頷く。
「王家の外戚となる立場を失うなど、決して認めないでしょう」
先日の僕の生誕祝賀会の時も、王家と公爵家の紋をこれでもかと使ったドレスや、どこから見つけてきたのか、まるで飴玉のような緑石まで持ち出してヴィクトリアを飾り立てていた。
「殿下、大義は我らにあります。公爵家に恥をかかさぬようにという陛下のご厚情に気づかぬふりをして、娘との結婚を推し進めようとするアーヴィング公の傲岸不遜を誰かが打ち砕かねばなりません」
「誰かが」
「はい、誰かが」
後ろめたい気持ちで、扉を守る護衛騎士を僕はチラリとみた。予期せず目線がぶつかり、僕は内心で冷や汗をかく。何も知らない彼は、いつものように実直そうな顔で僕に目礼を返してくれた。




