第31話 彼方へ
あの日。シグルドのあたたかい腕から抜け出して、水車小屋に駆け込んで。早く秘密の通路を戻らなくちゃいけないとわかっていたのに、私は動くことができなかった。扉に額をつけて、息を潜めて。その頃いつもサロンでしていたように、シグルドの気配をただ感じていた。
「俺、待っているから」
その言葉を最後に、彼の足音が遠ざかっていく。私は窓に飛びつき、細く開けて彼の背中を見送った。
その姿が見えなくなるまで、彼とグラムとシロガネに。何度も何度も祝福を贈った。怪我のないように、病気のないように、いつも幸運であるように。その光は私の未練のように、いつまでもいつまでも彼にまとわりついていた。
木立の中に彼のマントが消えると、堰を切ったように涙が溢れだした。壁に背中を預けてしゃがみこむ。口もとを両手で抑えて音を殺した。先程まで優しく背中を支えてくれていた大きな手のぬくもりを思い出す。
彼に会えた。だけど、行ってしまった。国を出て行かなければならなくなった。でも、私たちは約束をした。隣国の国境の街で、また会える。だから。
私はパシンと両手で頬を叩いて気合を入れる。
「泣いてる場合じゃない!」
コップ一杯分の水魔法で顔を洗い、自分の顔に治癒魔法をかける。ここには鏡はないけれど、きっと腫れていた目や赤くなっていた頬が元に戻ったはずだ。気持ちが落ち着いてくると不安になる。
「私、ちゃんと笑えていたかしら」
シグルドが安心して旅に出られるように、いつもみたいに。泣き顔を見られてしまったけれど。最後は笑顔で上書きできているはずだ。
「よし!」
最後にもう一度、シグルドとグラムとシロガネへ。旅の無事を祈って祝福を贈る。それから屋根裏の、シグルドが準備してくれている物資を確認した。いくつかは通路に隠すために持ち出し、私は水車小屋を後にした。
それからは、また退屈な学院生活を繰り返した。売る手段を失くしてしまったから、刺繍は寄付分だけでいい。やる気も出ないのでそこそこにしている。シグルドが学院を辞めたとか、国外に出たとか。そんなことは誰も何もいわなかった。バートンさんがいなくなったことも。貴族社会って恐ろしいなと改めて思う。
水車小屋の伝言を告げてくれたシグルドの友達に会いたかった。彼なら、何か知っているんじゃないかと思ったから。でも、できなかった。シグルドが、彼は子爵家の次男だといっていた。私に関わることで、何か迷惑になってしまっては申し訳ない。
殿下はといえば、時々、昼休みのサロンにきてお茶を一杯飲んでいくことがあった。あの日、私が叩きつけた憎まれ口などなかったかのように。いつものプリンススマイルの殿下に、私も王族スマイルで応えて。まるで社交の授業とてもいうような模範的な私たち二人が当たり障りない会話をしていく、空虚な時間。
執行部への誘いはぱったりと途絶えた。ルナが殿下の婚約者になるための、多方面への根回しが始まっているのだろう。そして、時間稼ぎのような殿下の様子からして。おそらく、それは上手く機能しているのだ。
でも、殿下に対して今の私には怒りとかそんなものはない。自分がシグルドに恋をしてしまったことで、殿下の気持ちも理解できるような気がするのだ。むしろ罪悪感すらある。
だって、私はバートンさんを遠ざけた。間接的にだけれど、家の爵位や自分の立場を使って、一人の人間を学院から追い出したのだ。シグルドには今後彼が煩わされないようにと、いかにも彼の為にした風にいったけれど。それだけじゃない。私がシグルドと剣の稽古ができなくなるのに、バートンさんだけがこれからも彼と楽しく過ごすのかもしれないと思ったらとても許せなかった。
ルナを殿下から遠ざけようとしたゲームの私は、確かに、今の私でもあるのだ。ゲームの殿下は、ルナと自分の間を邪魔する私を疎んだのだろう。今の私のように。
恋というのは、誰かを大切に思う美しい気持ちと、時になりふり構わず手段を択ばない行動をとる醜い自分を知ることになるもののようだ。
前世の記憶を得ることで、このままでいれば自分の未来が危ぶまれると知ることができたから。悪役令嬢という未来を放り投げて、なるべく周囲に影響を及ぼさないよう穏便に新天地へ逃げ出そうとしている私。
でも、殿下は自分の未来など知る術もない。ルナへの恋心や、自分の立場、家のこと、国のこと。王族として、次代の王として。有力貴族と姻戚を結ぶことで責任を果たそうという義務感。でも、恋心を諦めきれない17才の学院生。いろいろな葛藤や矛盾を抱えて、彼なりに精一杯よかれと思う行動をしているのだろう。未来を知る私が、暗闇の中を手探りで進む彼を笑うことはできない。
私たちは幼馴染だ。似たような環境で、お互いを支えに生きてきた。全てを捨てるという決断や手段が、彼にとっては私の何十倍も重たいものだということも理解できる。だけど、私がそれに付き合う義理も、彼の手を引く義務も、もうない。分かたれた道の先で、彼なりの幸せを手にしてくれたらいいと祈るだけだ。
そんな風に。まるで、私が前世の記憶を取り戻す前に戻ったような、不思議に静かな毎日。でも、それは嵐の前の静けさだったのかもしれない。
ルナが学院創始者の後継ぎの資格を得たことが正式に発表された。学院でも教会でもなく、王宮から。そして、その遺産を国中の孤児院や修道院に寄付をしていることも。
アーヴィングの寄子や、敵対派閥のご令嬢たちは、ご親切にも殿下とルナの様子をまた教えてくれるようになった。ここしばらく殿下の斜め後ろに位置していたルナは、今はまた、隣に寄り添うように立っているという。
旗色を見るように、これまで『脱・冷淡キャンペーン』に伴って笑顔で挨拶を交わすようになっていたクラスメイトたちが、また、私と距離を取るようになってきた。いよいよ、エンディングに向かってゲームシナリオが動き出したのだ。
『美しいだけでなく、偉大な魔法使いの後継者。莫大な遺産を惜しみなく寄付する慈悲深き才媛』。ルナの存在感が学院だけでなく、王都で大きくなってきた今。私は以前のように、殿下との結婚を静かに待つ従順で影の薄い婚約者として振舞う。
王妃さまや父に、円満な結婚のための余計な『配慮』をこれ以上されないように。私のためと誰かがルナに何事かを仕掛けて、その責任を私が問われる。そんな、ゲームの断罪シーンまっしぐらになっては困る。
状況は整った。あとは竜の襲撃を待つばかり。ゲームの通りなら、それは平日、学院の授業中に起こる。ルナと攻略対象が自然に揃っているシチュエーションだからね。
そのどさくさに紛れて逃げると私は決めていた。城だけでも学校だけでもない。逃げる者、戦う者、守る者で王都中が大騒ぎになる。そこに乗じれば侍女のアンナも、御者も、目を離したと責任を問われずに行方不明になれる。当然、今は国を出たシグルドが疑われることもない。
いつその時が来てもいいように、私は売っても脚が付かないような小ぶりなアクセサリーを入れた小袋を常に身に付けるようになった。逃亡のために本当は体力づくりがしたいのだけれど、校内でルナや殿下に遭遇してトラブル発生! なんて危険を回避すべく。授業以外はサロンに待機している。ここならば控えているのは学院で雇っているメイドだから、ある程度アリバイ対策にもなるだろう。
サロンではウォーキングなどができないかわりに、長いスカートに隠してこっそりと空気椅子や足踏みなどをしている。夜は自室で腹筋背筋もしているよ。腕立ては壁に向かって立って両手をつけて、曲げたり伸ばしたりと簡易的なものをしている。
「ちょっと一休み、っと」
私は長椅子に座り込んだ。今日も寝る前恒例の軽い運動をしている。べたべたと汗をかくほどやってはアンナに怪しまれてしまうからね。薄っすら汗ばむくらいの運動を、休み休み繰り返すのだ。
背もたれに身体を預けて、暗い窓の外を見る。静かな夜。ふと、胸元に手をやっている自分に気づく。最近はすっかり癖になってしまった。小さな固い感触。シグルドがくれたペンダントだ。
「ルージュに祝福を」
シロガネにしていたように、名前をつけて毎晩祝福を贈っている。
それから、私は椅子から立ち上がって窓辺に佇んだ。窓を開け、ひやりとした外の空気を感じる。見下ろす庭の木立が影を作っていた。
「今夜は明るい月ね」
窓から身を乗り出すようにして、手を組む。
「シグルド、グラム、シロガネに祝福を」
立ち昇る淡い光の粒子が風に乗るようにゆっくりと流れ、やがて消えていく。
「やっぱり、届かないかな」
風の強い日も、雨の日も。光はいつも、隣国の方向に流れていく。その先に彼がいることを、私は信じている。この、同じ月の下に。
「シグルド、グラム、シロガネに治癒を」
だから、たとえ届かないのだとしても。何度でも、私は祈る。怪我のないように、病気のないように、幸運であるように。私の、あなたへ。




