第30話 輝く月の下で
「これ、除籍届。王宮に出して、俺のことは放逐したっていってくれ」
「だめだ、そんなこと。お前は俺の弟だ」
「紙切れ一枚出したって、俺が兄貴の弟なことには変わりないよ。だけど、王家の連中はそれで溜飲をさげてくれるかもしれないから」
「お前そこまで……」
水車小屋で約束を交わしてから、俺は彼女の為にできる限りの準備を整えて実家に戻った。王都を出る日はトーマスが街門まで見送りに来てくれて。隣国で落ち着いたら手紙を出すといって、俺たちは案外とあっさり別れた。
実家は、特に事前の連絡もなかったようで突然の俺の帰宅に驚いていた。そして、事情を話すと憤慨してくれた。誰が発したかもわからず、正式な命令でもないことに従うことはないといってくれたけれど。俺は、宰相の息子たちが現れたあの日以来、姿を見せなくなったバートンのことを話した。
権力を持つのは親だとしても、実際に目の前で一人の人生が変わってしまったのだ。下手に本気を出されて実家に何かがあってからでは遅いし、それは彼女を苦しめることになる。それに、俺には約束がある。隣国の国境の街で待っていると約束している。
実家を出て、隣国へと向かう今日。領境まで見送りに来てくれた、やりきれない顔をしている兄貴にも、家で別れた家族にも教えることはできないけれど。だから、大したことじゃないという風に、俺は笑って見せる。
「どうせ、学院を卒業したら出すつもりだったんだ。ちょっと早くなっただけだ」
除籍届を兄貴の胸元に押し付ける。兄貴はそれを握りしめて、低く嗚咽をかみ殺した。一瞬のあと、思い切るように顔を上げて俺を見る。
「いいか、必ず帰ってこい。何年かすればほとぼりも冷める。それまでの武者修行だと思うことにするから」
返事をすることなく俺はただ微笑んで、兄貴が構えた拳に、コツンと自分の拳を合わせた。
「じゃあ、俺いくよ」
ここまで乗ってきた馬の手綱を兄貴に渡す。
「このまま馬を使え」
「無理すんなよ、うちにとって馬は大事な資産だろ」
「そんなこというな、せめて馬くらい」
「いいんだ、このまま家で大事にしてやって欲しい」
「すまない……」
「俺こそ、ごめんな。三男のくせに家に迷惑かけるようなことした。兄貴が家督をついだあと、アレが王様になったらやりにくいだろう」
「気にするな、こんな辺境の弱小領地。王家にも中央にも、もとから相手にされてない」
ニヤリと兄貴が笑った。それから、大きな手が俺の背中をポンと叩く。
「元気でな、体に気をつけて」
俺は頷いた。
「皆んなも」
もう、それしか言葉が出ない。踵を返して、歩き出す背中に兄貴の声が追いかけてくる。
「無茶すんなよ! 絶対、帰ってこいよ!」
応えて軽く手を上げたが、俺は振り向かなかった。振り向いたら足を止めてしまいそうだから。
彼女と合流すれば、もう帰宅することはかなわない。そのことを告げずに出て行くのは心苦しいけれど、うちの家族なら許してくれるという確信もあった。だから、俺は前を見据えて、ただ足をすすめていく。もう、戻れない。戻らない。俺を呼ぶ兄貴の声が、段々遠ざかっていく。振り切るように更に足を早めた。
どれくらい歩いただろうか。宿場からは乗合馬車を使おうと思っていたのに、結局一人で歩き続けてしまった。徒歩のほうが彼女から離れる速度がゆっくりになるなんてバカみたいに考えていた。
日が傾いて、俺は野営場所を確保した。人目につかぬよう、街道から少し入ったところ。隣国の国境まではまだ遠い。グラムに頼んで小さく焚き火を作り、食事を終える頃にはもう真っ暗になっていた。野営には慣れている。だが、いつもパーティーメンバーがいた。そんなことを考えてふいに心細さに捕まりそうになった時、グラムがふわりと柔らかく光った。
「お前がいてくれるな、一人じゃない」
脇に置いていたグラムを脚の上に載せ、改めてぐるりと辺りを見渡す。土地が痩せているのだろう、下草ばかりで身を寄せる木も見当たらない。人家の灯りも山も森も見えない、どこまでも夜の闇が広がっている。あまりの静けさに心が竦む。怖気を振り払うように見上げた空には満天の星と、高く冴え冴えと輝く月。俺はふっと息を吐いた。
「月の女神、か」
彼女と過ごした日々が脳裏をよぎる。近寄りがたい人だと思っていた彼女は、可愛らしくて思いやりのある、普通の少女だった。いや、美しさは飛び抜けていたか。
強く冷たい女なんかじゃない。自分を、置かれた立場を、実家の地位を、貴族の矜持とそして他者を。守るために、強く見せようとしていただけなのに。なぜ誰も気づかない? 彼女の痛み、彼女の傷に。誰も彼もがあの細い肩に重荷を積み上げていく。大人も、王家も。
「俺も、か」
苦笑いが零れる。彼女を守りたかったのに。王子に、王家に、公爵家。男爵家の三男、地位も身分も金もない俺には歯が立たなかった。舞台に上がることさえ許されない。それどころか、俺を庇って彼女に辛い思いをさせてしまった。不甲斐ない……。
俺は精一杯、夜空に、月に向かって手を伸ばす。指の間から見える柔らかな光。今は全然届かないけれど、必ず……。
ぶるりと体が震える。風の音さえもない静寂。見渡す限り、誰もいない夜の草原。
これからのことを考える。実家が持たせてくれた食料と路銀が尽きる前に、隣国にたどり着いて冒険者登録をして。金を稼いで生活を立て直して。
大丈夫、自分一人まかなうくらいなんとかなる。いつでも彼女を迎え入れられるように準備を整えて。でも、本当にそれで大丈夫なのだろうか?
例えば。隣国の街で冒険者をしながら、日々の暮らしに汲々としている俺の元に届く手紙。実家からの、王家の結婚の知らせ。約束をしたのに、婚約は解消されるはずだった。なのに、どうして? 彼女がアイツのものになったと知って、愕然としながらも、どこかで仕方ないと思う俺。
「だめだ!」
脳裏に映るそんな光景を振り払うように強く頭を振る。
「ヴィクトリア…」
離れたから名前を呼べるなんて皮肉だな。どうしたらいいんだ。強く目を瞑り、毛布に包まって夜具に寝転んだ。隣国の国境の街で待っていると約束したんだ。でも、それで本当にいいのだろうか? もしも、彼女の気が変わったら? いや、彼女はそんな人じゃない。必ず逃げるといった。だけど、王家にバレて閉じ込められてしまったりするかもしれない。
「だめだ!」
悪いことばかり考えちまう。大きく息を吐きだして、薄い夜具の上で寝返りをうった。ごろりと仰向けになった俺の上で輝く月を見上げて。華奢な背中で跳ねる、木漏れ日に輝く銀の髪を思い出す。
――俺がやりたいことは
決意と不安の間で振れていた気持ちが鎮まるのがわかった。
「おやすみ」
高く遠い空に浮かぶ銀の面影に、俺は小さくつぶやく。何度迷っても、不安に押し潰されそうになっても。あの月が俺の上で輝く限り、俺が行く先に迷うことはない。彼女がよく眠れているといい。




