第29話 約束
じっと自分を見上げてくる紫色の瞳に、俺は頷いた。
「ごめんなさい、やっぱりあんなことがあれば学院が嫌になってしまうわよね。私、剣の稽古ができなくなってもせめて、シグルドがこれからバートンさんに煩わされないようにと思ったんだけど」
「それであの時バートンを? 俺こそ、それであなたに負担をかけてしまっていたのにごめん」
泣きだしそうな顔で俺を見つめてくる彼女。いおうか、いうまいか。今日までずっと悩んだけれど、俺はあえて告げることにした。
「俺、辞めるつもりはなかったんだ。たとえ剣の稽古ができなくなっても、同じ学院の中にいれば何かであなたを助けることもできるんじゃないかと思っていた。でも……」
「まさか、ネルソンが何か」
彼女の瞳の奥に、瞬間怒りの火が灯るのが見える。怒っても美しいなと思ってしまう自分に内心呆れながら、俺は首を横に振った。
「先週、学院長室に呼ばれたんだ。誰からの命令とかじゃなくて、実家のことを考えるなら国外に出たほうがいいっていわれた」
「そんなのっ……」
言葉の続かない様子の彼女。
「だから、俺が決めたんだ。ごめん、あなたの傍で何か少しでも役に立ちたいって思っていたのに」
「そんな、違うわ。ごめんなさい、私のせいであなたのお家にまで……」
「学院を卒業したら冒険者になるつもりだったから、辞めること自体はどうでもいいんだ。ただ、もうあなたを傍で助けることができない。あなたの計画なら、これからが一番助けが欲しい時だと思うのに。学院どころか王都にとどまることすらできない。危ないことは一緒にしようって約束したのに、本当にごめん」
紫色の瞳を揺らした涙がそのまま、白皙の頬を流れ落ちる。
「あなた、本当にバカよ」
「よくいわれる」
隠すように細い両手で顔を覆い、声もたてずに肩を震わせる彼女が頼りなくて。俺はつい、彼女を抱きしめていた。細く、柔らかいその肢体が俺の腕の中で小さく震えている。
王家の血を持つ公爵令嬢。王太子の婚約者。その気になれば下級貴族の令嬢一人の人生を言葉一つで左右することもできるのに。実態は、人のいない場所ですら泣く時に声を出すこともない彼女を、一人王都に残していかなければいけない。その現実に俺は唇を強く噛みしめた。
「俺、あなたに何もしてやれなくて。本当に何の役にも立てなくて。自分が情けない」
彼女が顔を上げて俺を見た。
「いいえ、とてもよくしてもらったわ。剣のことや冒険者のこともいろいろ教えてくれて。小物を売ってくれたり、物資を運んでくれたり。たくさん助けてもらったじゃない。それに、私とても楽しかった。たぶん、今までで一番楽しかったわ」
涙に濡れたままの笑顔がとても愛しかった。俺は手袋をしたままだったけれど、その美しい髪を撫でる。
「初めてあったとき、剣の素振りをしている俺を、あなたは少し不思議そうに見ていて。『剣の稽古なんて見てもおもしろくないでしょう?』って聞いたら『自分もやってみたい』って。そういって、すごく綺麗に微笑んだんだ」
彼女が小さく頷く。
「俺は男爵家の三男坊で、いずれは貴族の籍を抜けて冒険者になって地元を守ってのんびり暮らせればいいって思ってた。でも、今は……。俺にもっと力があったら、あなたに辛い思いをさせないで済んだのに。俺、何もできなくて…」
歯を食いしばる俺に、彼女が細い腕を回して抱きしめてくれた。それがただの慰めでも、憐みでもいい。ここまできて、ようやく、俺は自分の気持ちを告げる覚悟を持てた。
「俺、あなたが好きだ」
紫色の瞳を見つめて、精一杯告げる。
「一緒に行かないか? このまま国を出て、俺があなたを守るから」
今だって、共通点が学院だけなのに。辞めて国を出れば、もう生涯会うことは叶わないだろう。相手は王太子妃になる。白亜の城の奥、自分の決して手の届かない世界の住人になってしまう。そしてあいつの手を取って。別の女にのぼせ上がっていたあんな男の妻になってしまう。
彼女は一瞬目を見開いて、それから少し寂しそうに首を振った。
「その気持ちだけで嬉しいわ。でも、だから一緒には行けない」
「やっぱり、あいつと」
少し情けない声でいいかけた俺を、彼女が力強く遮った。
「いいえ、それもない。私は必ず逃げる。でも、その時は一人。私はまだ王太子の婚約者で、公爵家の娘だもの。一緒に行ったら、あなたは罪人になってしまう。あなたのお家にもお咎めがあるかもしれない。領民たちが困るでしょう? それだけはするわけにはいかない」
「だけど、あなたみたいな人が。そんなに華奢で日に焼けたこともないような令嬢が一人でどうするっていうんだ」
「大丈夫よ。お金も貯めて、剣の稽古もしてきたのよ。逃亡物資も準備してもらっているじゃない」
いつも、裏庭で見ていた溌剌とした笑顔で彼女がいう。俺を励ますように。
「俺に力があれば。公爵より、王子より……、王家より強い力があれば」
歯を食いしばって俯いた俺を、彼女が優しく覗き込んでくる。
「シグルド、ありがとう。でも、余所でそんなことをいってはダメよ」
返事ができない俺の髪に手を伸ばして、彼女が優しく撫でた。
「私も、シグルドが好き。だからお願い、危ないことをしないで。あなたにも、あなたの家族にも幸せになってほしいの」
俺は涙を堪えるためにぎゅっと目を瞑った。こみ上げるものを飲みこむために低く呻いて。それからギュッとつよく彼女を抱きしめて、ポケットから小さな革袋を取り出した。
「これを」
差し出すとジャラリと音を立てる。
「受け取って。今は持ち合わせがこれしかないけど」
「お金? だめよ、これから国外に出るのでしょう?」
「大丈夫、ギルドにまだ預けてあるんだ。実家にも寄るから、俺はこれからいくらでも都合できる。あなた、絶対に逃げるんだろう? 現金があれば手段が増える。乗合馬車じゃなくて馬を借りることもできる」
「シグルド……」
「お願いだから、受け取って。水車小屋にも金も物資も必要そうなものを置いておくから、必ず逃げてくれ」
彼女の白くて細い指に革袋を握らせた。
「ありがとう、私、いつも助けられてばかりね」
受け取ってくれるのが彼女の優しさだとわかっていた。
「孤児院の見習い冒険者の連中は、この辺りにもよく薪を拾いに来るんだ。あいつらには依頼として、あなたにあったら手助けをするように頼んでおく。目印に赤い組紐を渡しておくから。本当は女性冒険者に移動の手助けを頼めたらいいんだけど、大人の連中はどこで誰と繋がっているかわからないから」
こんなことしかできないけど、という俺に。
「心強いわ」
彼女が微笑んだ。
「もうすぐ特待生の彼女と立場を入れ替えて貰えると思うの。それに、遅くとも学院卒業の時に婚約は解消される。私、必ず逃げるわ。そして、あなたに会いに行くから」
「じゃあ、隣国の国境の街で待っているから。あなたがいつ来てもいいように、俺、待っているから」
楽し気に未来を語る彼女に、俺は必死に頼んでしまう。
「合流したら、私、冒険者ギルドに登録するわ。そうしたら二人でパーティーを組んで。ねえ、竜を見に行きましょうよ!」
「竜を? あれは、どこか遠い山の雲の上に住むって昔の伝説だろう?」
「いいえ、竜は本当にいるのよ」
彼女がひどくいたずらっぽく笑いかける。逃亡先に宗教の総本山を目指したのは、巡礼者に紛れることができるだけでなく。その国の山脈に竜の住みかがあるのだという。
「竜はね、怒らせなければ人のことなど眼中にないの。でも、金貨や宝石なんかのキラキラした細工ものが好きだから。贈り物をして仲良くできたら、友となってくれるのよ」
「それも公爵家の秘密?」
「ご先祖様のいいつたえ」
にっこりと笑う彼女が可愛らしい。聖魔法を手に入れり、魔剣を作ったりした彼女のことだ。きっと、これも事実なんだろう。
「ああ、行こう。竜を見に、二人で」
「あ、うっかり倒してはだめよ? いくらあなたが魔剣グラムを持つシグルドでも」
「本当に俺が竜を倒せるかもしれないと心配してくれるのは、あなただけだよ」
俺たちは二人で声をたてて笑った。
それから、じっと彼女を見つめて。紫色の瞳に俺は誓う。
「必ず、いつかあなたを自由にしてみせる」
何も答えず、少し悲しげに彼女は微笑んだ。美しい公爵令嬢、王太子の婚約者。全てを持っているようにみえる彼女が手に入れられないものを、俺がその手に届けてみせる。
「シグルド、少しかがんでくれる?」
いわれるままに中腰になった俺の首に、彼女がペンダントをつけてくれた。
「治癒と祝福の力をたくさんこめてあるの。グラムの真似をして名前をつけたのよ。シロガネっていうの。きっと、あなたを守ってくれる」
「それなら、俺じゃなくてあなたが身に付けたほうがいい」
「大丈夫、私は魔法そのものが使えるのよ? これから旅に出るあなたに持っていて欲しいの」
「ありがとう、大事にするよ」
俺は胸元の小さな銀の輝きをぎゅっと握りしめた。
「それから、これも」
彼女の小さな手のひらには、虹色に輝く小さな珠があった。
「水魔法が込められているから、旅先で役に立つかもしれないわ」
私は水魔法持ちだから宝の持ち腐れなの、と彼女がいった。
「俺も、これをあなたに。ずっと渡せなかったけど」
小さくて、あいつのには負けちゃうんだけど、と。赤い石のついたペンダントを差し出した。
「嬉しいわ」
彼女が両手に包み込んで、胸に押し当ててくれた。
それから小さく俯いて呟く。
「いつ、王都を出るの?」
「明後日には出て行けといわれている」
「そう……」
「金も装備も、水車小屋にしっかり準備をしておくから。必ず、無事に逃げて欲しい。俺、待っているから」
彼女が俺を見上げて、しっかりと頷いてくれた。
「ええ、約束よ」
それから、いつも裏庭でそうしていたように。俺とグラムと、それからシロガネに祝福と治癒魔法をかけてくれた。新しい図案の竜の刺繍がされたハンカチと、何本かの組紐も渡される。全て、祝福をしてあるといって。
「グラム、シロガネ。シグルドのこと、お願いね」
彼女がいいながら祝福と唱えると、グラムが薄っすらと光った。それを二人で見守って、さすが魔剣だと笑みを交わして。
「そろそろ、戻らなくちゃ」
とうとう告げられた言葉に、俺はもう一度彼女を抱きしめた。
「俺、待っているから」
腕の中でこくんと頷いて、そのぬくもりがするりと抜け出していった。きっと、俺は情けない顔をしていたと思う。彼女も泣き笑いの顔を残して、水車小屋に消えて行った。
その扉の向こうにまだ彼女の気配を感じたけれど、俺がここにいては彼女もきっと戻れないのだろう。
「俺、待っているから」
扉に向かってもう一度いって、俺は断ち切るように水車小屋をあとにした。




