第27話 再戦 王子
「今日もいい天気ね」
学院の昼休み、私はサロンの窓辺で刺繍を手にしていた。開け放った窓からは小鳥のさえずりが聞こえている。
あの日から、私の生活は色を失ってしまった。昼休みのほんの数十分の過ごし方が変わっただけなのに、何もかもが酷く退屈でやる気がでない。これまで、逃亡の準備でいつもいつも時間が足りなかったのに。シグルドに会えなくなったからといって、必要な準備はいくらでもあるのに。頭ではわかっていても、今の私は焦る気持ちすらわいてこない。時間の流れが緩慢で、一日がとても長過ぎて。
体力づくりのための散歩もやめた。今は昼食後も、そのままこうしてサロンで過ごしている。シグルドにばかり恥をかかせる状況が不本意ではあるが、「剣術指南を依頼されたシグルドが、私に思慕を寄せていた」ところで終わりにしなければならない。「私のほうも満更でもない」というネルソンの疑惑を、事実と認識されるわけにはいかない。
私はまだ「王太子の婚約者」。おかしな噂が立てば、家格の低いシグルドやその実家が厳しい立場におかれることになる。だから、私の気持ちは誰にも知られるわけにはいかない。
――シグルド
呼べなくなった名前を心で思う。ここからは裏庭が見えるわけじゃないけれど。開け放した窓から、あの場所の気配を探る。シグルドの剣が風を切る音。踏み出した時に草が鳴る音。聞こえるはずのない音に耳をすましている時だけは気持ちが柔らかくなる。目に見えないだけで、いつものように剣を振るシグルドを心に描くことができた。
今になって考えると、私は裏庭で剣を振っているシグルドしか知らない。クラスも教室も違って、私は食堂を使うこともないから。昼休みに裏庭に行かなければ、偶然にすれ違うことすら叶わない。
「すれ違いたくもないか……」
あの日、シグルドの恋心を、“家督も継げない男爵家の三男など”と嘲笑してしまった。冷淡で、高慢な悪役令嬢ヴィクトリア。一番見られたくなかった人に、知られてしまった醜悪な私。彼を守るためといって、彼を傷つけてしまった。でも、あの時の私は他に方法を思いつかなかった。ネルソンやバートンさんが余計なことをいわなければ、剣術の稽古をやめるだけですんだのに。そうすれば、婚約破棄されて逃げ出したら、シグルドに会いに行くこともできたのに。始まった瞬間に木端微塵に砕けた私の恋は、欠片を集めて修復することすらかなわない。
シグルドへの恋心やネルソンたちへの恨み言、自分の浅はかさを後悔したり。いろいろな感情をぐるぐると胸の内で渦巻かせていて、刺繍は持っていても全然針がすすまない。そんな毎日を繰り返していた私の昼休みを、更に乱す人が現れた。
「ヴィクトリア、ちょっといいかな」
護衛騎士を連れた殿下さまだった。
まだ私の婚約者。入室を断ることはできない。いつかのように、どうぞと応えて私はメイドにお茶の準備をするように指示をした。やっぱり、私が何をいわなくても当たり前のように殿下は上座に座る。
「御前、失礼いたします」
いつものように小さく膝をかがめて、私は殿下さまの向かいの席についた。メイドがお茶を運んでくる。二つのカップが私たちの間で湯気を上げている。
私は形式的な毒見な毒見として、先に口をつけた。
「お口に合えばよろしいですが」
「いただこう」
殿下もお茶を口にする。カチャリと茶器を置いて、部屋に静けさが満ちる。
「本日はどうされました?」
ただでさえイライラしている私は、なるべく早くこの急なお茶会を終わらせたくて殿下を急かした。
「ちょっと話しておきたいことがあってね」
そこまでいうと、殿下はさわやかプリンススマイルから眉を下げて少し困ったような顔をする。
「先日の裏庭でのことを、母上が耳にしてしまったようなんだ」
ネルソンめ、手打ちにするといったくせに。王妃さまの耳に入ったということは、ネルソンから聞いた宰相が王妃さまにご注進したのだろう。
「僕がね、いろいろ君に辛い想いをさせてしまったこともあるだろう? 母上としては、その、思い詰めた君が例の冒険者に心を許してしまったりしていないか心配をされているようなんだ」
「その誤解については、先日解消したと思っておりましたが」
私は笑顔を取り繕うことすらなく、平坦な声で答えた。
「もちろん、あの場にいた僕はわかっているよ。君は毅然と対応してくれたし、ネルソンも許してくれた。だけど、母上はね。なんというか、君を疑っているわけじゃなくて、心配してくださっているんだよ」
間を持たせるように殿下がお茶を口にするのを、私は冷めた目でじっと見ていた。
「君は将来王妃になる人間だ。学院生だからと油断しておかしな人間関係や弱みを作ってしまえば、王族となってからつけ入れられるかもしれない。そういうことは困るだろう?」
気まずそうにはしているけれど、内容には遠慮がない殿下の言葉。
学院で羽を伸ばすことが王子に許されるなら。だったら、私が彼と仲良くしても問題がないはずなのに。自分は長いこと男爵令嬢と親しくして、私がほんの数か月男爵子息と親しくなったらこの物言いか。私は何を言い返す気力もわかずに、茶器から上る湯気を見ていた。
「ヴィクトリア、この機会に執行部に参加してはどうかな? みんな将来国政に携わる者として君とも長い付き合いになる間柄なのだし。彼らと親しく過ごす姿を見せれば母上のご心配もすぐに解消されると思うんだ」
「彼らが高位貴族だから、ですか?」
ようやく返事をした私にホッとしたように、殿下が表情をゆるめて続ける。
「ああ、彼らは王家の傍近くで代々支えてくれる家柄だ。しっかりと交流を深めれば、みんなきちんと君を受け入れて理解してくれる。君の貞節が疑われるようなこともなくなるだろう」
母上も安心されるはずだ、と殿下がプリンススマイルを見せる。
頭の芯がすうっと冷えていくのを感じる。私は口もとに薄く浮かべていた貴族的な笑みを消して、殿下を見据えた。
「下種の勘繰りですわね」
「ヴィクトリア?」
私の低い声に、殿下が怪訝な顔を見せるが気にしない。
「私も将来王妃になるものとして、王の最後の盾となるべく剣の腕を磨き、平民の生活を学んでいたに過ぎません。貴族の世界しか知らないようでは、王妃は務まりませんものね」
「そうだね、僕はもちろんわかっているよ」
殿下がとりなすようにいう。
「私たちは卒業すれば自由が制限される立場になるのですもの、学院生のうちはお互いに、気安い友人との気楽な付き合いを楽しんで世界を広げるべきではございませんか?」
相槌を打たない殿下を、私は口もとに深く弧を描いて見返した。
「私、ようやく理解できましたの。公爵令嬢と男爵子息の間にも、そして男女の間にも友情は育つのですわ。全く、殿下のおっしゃる通りですわね」
以前の自分の言葉をそのまま返されたことに気が付いたのか、殿下は黙って立ち上がり、そのまま挨拶も残さずに扉へと歩いていった。立ちあがって見送ることもしない私を、護衛騎士は心配そうにちらりと見てそのまま殿下の後に続いて行く。バタンと扉が閉まる音がする。
安堵か、呆れか。私はほうっと大きく息を吐きだした。やってしまった。こんなことをいっても、今この瞬間すっきりするだけで長い目で見れば自分の立場を悪くするとわかっている。でも、止められなかった。
――ざまあみろ
サロン付きのメイドが控えているから声にすることはできないけれど。私は内心で快哉をあげる。込み上げてくる笑い抑えられず、声を殺して一人しばらく肩を震わせてしまった。テーブルにはまだ、二つの茶器から静かに湯気が立ち上っていた。




