第19話 王子 VS 冒険者
彼女が華やかな微笑みを浮かべている。公爵令嬢に相応しい美しいドレスに身を包み、王太子の瞳の色の宝飾品で飾られている。隣にいるのは金糸で飾られた白い礼服姿の王子。彼女の婚約者。眩いほどの光の中、壇上で王子に手を取られて歩く彼女を、俺は見上げている。会場の片隅、大勢の学院生の中の一人。高位貴族は豪奢な夜会服を着ている。俺は兄貴のおさがりだ。男爵家とはいえ跡取用に作ったもので、ものは悪くない。でも、王子に、他の奴らに比べれば。とても彼女の隣に立てるような身なりではない。わかっている。三男で、将来冒険者になる俺用に高価な夜会服を誂えるほど、実家に余裕はない。水路の整備や関の修理、冬の備蓄と金のかかることはいくらもある。
思い知らされる。敵わない。全然、手が届かない。わかっていたはずじゃないか。彼女は高嶺の花、雲の上の人。夜空に輝く銀の月。俺は家督も継げない男爵家の三男坊。彼女は本来、田舎ギルドの冒険者風情とは口を利くこともない人だ。
偶然裏庭で出会ったあの日、彼女が天から舞い降りたように俺の前に現れてから。二人でいると楽しくて、本当の彼女は普通のかわいらしい少女で、俺は忘れてしまっていた。彼女の立場。俺の立場。二人の、本来の距離。俺は奥歯を噛みしめる。
もしも。今、俺が壇上に躍り出て彼女の手を取ったなら? 不審者として舞台の端に控えている近衛に押さえつけられ、会場から放り出されるだろう。もしかしたら牢にいれられるかもしれない。実家にお咎めがあるかもしれない。だって彼女は王太子の婚約者。いずれ王族になる公爵令嬢。
俺は壇上から目をそらした。これは、王家と公爵家の揺らがぬ関係を貴族社会に示すための祝宴。だから公爵令嬢は最上級に装って華やかな笑顔を振りまく。着飾った美しい彼女を見られて嬉しかった。それ以上に、自分以外の男の隣で微笑む姿を見ることが苦しい。それが彼女の『お役目』だとしても。それを見守る大勢の中の一人が俺の『役』だとしても。
『婚約者を辞退したい』と彼女はいう。王太子が特待生を選び、婚約を解消されるのは時間の問題だから今だけの我慢なのだ、と。そうあって欲しい。だけど、本当に? このままでいけば。そのお役目は学院を卒業しても解消されることなく、彼女の人生そのものになってしまうのではないか。そうしたい大人たちが、今日、この宴を開いているのだ。莫大な予算と権力を使って。『自由になりたい』と彼女がいった。あの時、俺は聞こえなかったふりをした。どうしたらいいのか思いつかなかったから。そして今もわからないまま。彼女の役に立ちたい。俺ができないことでも。俺にあるのは己自身と一本の剣だけ。どうしたら、俺は。
「シグルド」
ポンと肩を叩かれた。ハッと我に返る。
「一杯やろうぜ。自分ちじゃお目にかかれないような上等な酒ばかりだ」
トーマスが笑って差し出してくるグラスを手に取った。
「今日は乾杯はなしだ」
ニヤリと笑ってグラスを呷るトーマスにならって、俺もグラスを空けた。
「気を遣わせたな」
「バレたか」
小さく肩を竦めたトーマスが、通りがかりの給仕から新しいグラスを手にする。二杯目を飲む気にはならなくて、俺はグラスを返した。
「なんだか思いつめたような顔していたからさ。でも、一緒にこうして飲むくらいしかできないんだけど」
「感謝してる」
「なんだよ、もう酔ったのか」
「そんなわけあるか、俺は冒険者だぜ」
二人で顔を見合わせて、小さく笑った。
俺は吸い寄せられるように壇上に視線を戻す。トーマスも同じところを見ていた。
「美しいな」
「ああ」
ふっと、トーマスが小さく息を吐いた。
「俺、お前のそういうとこ好きだわ」
「なんだよ、それ」
「月は美しい。でも人の手は届かない。だから、なおさら美しく見えるのかもしれないぜ」
違うよ、といおうとしたところでトーマスを呼ぶ声がした。
「悪い、ちょっと向こうに顔出してくるわ」
俺は軽く手を上げて応えた。
「彼女は本当に美しいんだよ」
遠ざかるトーマスの背中に小さくつぶやく。
トーマスは正しい。俺が手にしているのは、咲かせたところで実のならぬ悲しい花。摘んでしまわなければいけないのに、それは勝手に育ってしまう。一日のせいぜいほんの30分。昼食後に剣を振ったり、たわいない話を聞いたりするだけなのに。彼女は美しく、優しく、かわいらしい。特別なことはなにもないのに、毎日俺を虜にしていく。10才から一緒にいたと聞くのに、あの王子サマはなぜ彼女を愛さずにいられるのだろう。不思議でならない。
俺は新しいグラスを取って会場の隅に場所を移した。ここからならば、会場を見渡す態で壇上を見つめていられる。遠くから、静かに。
と、上等なドレスの女子学生たちが近くの長椅子に陣取った。場所を移そうかと思った時。
「ねえ、今日だれか特待生を見た?」
「そういえば、見かけないわね」
「私も」
「執行部の皆様は、それぞれの婚約者といたわよ」
そんな会話が聞こえてきて、俺は足を止めた。日頃社交界とは縁がないけれど、あの執行部の動向が気になった。王太子と特待生が上手くいっていると彼女はいうけれど。
「殿下はてっきり特待生をエスコートするものだと思っていたけれど、意外だったわね」
「そんなこと、アーヴィング公爵が黙っていないわ」
「ここだけの話だけど、閣下が王妃様にねじ込んだらしいわよ。『我が家のメンツを潰す気か』って」
「そういうことでしたのね。おかしいと思ったいましたのよ、去年は何もなかったのに急に学院生を招いてご生誕祝賀会を開くなんて」
「御実家が強くて羨ましいわ。失った寵愛すら取り戻してくれるお父様がいらっしゃるのですもの」
「あら、ご本人だって努力していらしたじゃない。急に慈善活動に熱心になって」
女たちの厭らしい笑い声が高く響く。
「アーヴィングさまのドレス、すごかったわね」
「殿下が贈られたそうよ、新しい髪飾りも」
「執行部の他の方々の婚約者の皆様と違って、わざわざこのように華やかな場をあたえていただけるなんて。黙って我慢されていた甲斐もあったというものだわ」
「それにしても。あんなに大きな緑石、王家とはいえよく手に入ったものね」
「それがね、閣下のご手配らしいわ」
「いやだ、義父となる方に頼まれて殿下は渡しただけということ?」
「最近、『お気に入りの髪飾り』をつけていらっしゃらなかったものね。でも、これでようやく元の鞘に収まるのかしら」
「やっぱり、特待生のことは学院の中だけのお戯れだったのね」
「王家と云えども、アーヴィングと敵対しては何かと面倒になるでしょう」
「側室に入るにしても、孤児院育ちの平民ではね」
「それがね、宰相家が養女に取る準備をしているとか」
「ネルソン家ならアーヴィングだけが王家の外戚になるのは阻止したいところでしょうね」
それ以上聞いていられなくて、俺はその場を離れた。テラスから庭園に降りると、ひんやりとした外気で頭がすっきりしてくる。
光に背中を向けて、会場から遠ざかるように夜の庭園をゆっくりと歩く。ぽつりぽつりと置かれたかがり火に、植え込みやベンチがぼんやりと浮かび上がっている。ふいに見上げた空には。
「今日の月は細いなあ」
彼女は壇上で誰よりも輝いていたというのに。
人の気配を感じて、咄嗟に身を隠したことに気づく。我ながら何をしているんだか、夜とはいえここは学院内。討伐中でもあるまいに。自分でも思った以上に、今日のパーティーでダメージを受けているみたいだ。四阿で一休みしようかと視線を巡らせた先には。先程まで彼女の隣にいた男が、いつもの制服姿のままの少女と微笑みをかわしていた。“所詮、王子と平民だ”トーマスの声が脳裏によみがえる。
「確かに、釣り合わない」
まるで俺と彼女のように。
自嘲して、今度は四阿に背を向ける。このまま見ていたらいろいろ我慢できなくなってしまいそうだ。彼女を会場に残して自分だけ特待生と何してんだか、あいつなんなんだよ。俺は彼女の隣立つことすら許されないのに。イライラと立ち去ろうとする俺の背中に、弾むようなあいつの声がぶつかった。
「僕は君に恋をしているんだ、ルナ」
俺は小さく息を呑み、そのまま、ゆっくりと四阿に振り向く。特待生の声は聞こえない。声が出ないのかもしれない。
「そう、親が決めた、国が決めた婚約者だ。でも、誰かを好きになる気持ちは別で、それは悪いことではないだろう?」
俺は植え込みに隠れて耳をそばだてる。アイツが心を決めてるって、婚約解消するって、本当だったんだ。暗がりに息をひそめ、自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。
「そうじゃない、これからは君と少し距離を置こうと思う。だけど、僕が君に恋をしているということだけは知ってもらいたかったんだ」
期待した言葉と真逆の声が聞こえて、俺は目を見開いた。
「君には誰より幸せになって欲しいと思っている」
ひどく優しい声でいって、アイツが特待生の髪に手を伸ばした。俺はそれ以上見ていられなくて、今度こそ、足早に四阿から遠ざかった。
会場に戻る。暗がりに慣れた目にはシャンデリアの灯りが一層眩しく、俺は一瞬顔を背けた。壇上には、大勢の貴族たちに囲まれて微笑む彼女。
先程聞いてしまったこと。どう告げるべきだろうか、彼女に。王子と結婚したくない、早く特待生と交代して欲しいと笑っていた。彼女にとって状況がよくないことなら、なおさら早く伝えなければいけないと思うのに。
もしも伝えて、彼女が仕方ないとその『お役目』を受け入れてしまうことが恐ろしい。アイツと婚約を解消したところで、到底俺の手の届く人じゃないってわかっているのに。
「君には誰より幸せになって欲しい……」
夜空程ではなくとも、高く遠い場所で微笑む彼女につぶやいた。その気持ちは嘘じゃない。だけど、どうして他の男に譲ることができる? 気持ちを伝えて、幸せを祈り距離を取る。ろくでなしだと思っていたアイツのほうが、俺よりよっぽどマシな男なのかもしれない。