第18話 王太子殿下の誕生パーティー ヴィクトリアの場合
「よく似合っているよ、ヴィクトリア」
「恐縮です。殿下もとても素敵ですわ」
金糸で縁取られた真っ白な礼装に身を包んだ殿下は、謙遜もせず優雅に微笑む。男性なのに華やかという形容詞が相応しいその姿はまさに生まれついての王族、王太子といえるだろう。
「殿下、そろそろ」
王家の侍従の声に、殿下さまが真っ白な手袋に包まれた手を差し出した。私は内心のため息を微笑みに変えて、手を預ける。とうとうやってきた殿下さまのご生誕祝賀会。もしも今日、婚約破棄がいいわたされたとしても。とりあえず逃げる準備は整っている。
現実的に、今日の明日で領地送りになるはずはない。ゲームのように『会場で気を失って数日寝込む』ということがなければ、王家と公爵家の話し合いや調整が必ず数日はある。その間に自分も話し合いたいと城にいって、そこから秘密の通路で逃亡すればいい。
念には念をいれて、このまま城に連れて行かれても対処できるように。換金しやすい小ぶりなアクセサリーを入れた袋を靴下止めの下に巻いてきた。
― 来るなら来い!―
およそパーティーの開始には似つかわしくない気合の言葉を胸に、重厚な扉の前に殿下さまと並び立つ。侍従がゆっくりとそれを引くと、列席者たちが集う広間への道が開かれた。
式典の際は王族が臨席する学院の講堂は、日本人が学校の施設として思い浮かべるそれとは全く様相が事なる。城の一部を移したような荘厳なものだ。全体に曲線的にしつらえられ、天井に輝くシャンデリア、金と深紅、レリーフや絵画が調和している。
常であれば式典を見守る際に王族が控える壇上に、私たちはゆっくりと進み出た。日頃は制服姿の学院生も今日ばかりは貴族らしい衣装で静かに頭を垂れている。
「僕の誕生日を祝い、集まってくれてありがとう。今日は、将来国を支えてくれる優秀な学院生と親しく過ごせるようにという陛下のお計らいで、公式なものではない。慣れない者もいると思うが、気を遣わずに楽しんでいってほしい」
侍従が楽団に目くばせをするとゆったりと華やかな音楽が流れだし、殿下さまと私は中央に置かれた椅子に移動した。学院内はみな一学生ということになっているが、こういう場では当然、誰もが実家の爵位に従って行動する。高位貴族の子息令嬢が続々と挨拶に現れ、まずは殿下さまに、そしてその隣りで微笑む私にも挨拶をしてくる。
“ありがとう”、“素敵だわ”、“良い夜を”。ボットのように返事を繰り返す中。
「本日のアーヴィングさまのお召し物、とっても素敵ですわ」
女子学生の一人が意味深にチラリと殿下さまを見る。ありがとう、と応えようとした時。
「そうだろう? 僕が贈ったものなんだよ」
「まあ、さすが殿下ですわ」
「この髪飾りも、ね」
「アーヴィングさまに大変お似合いです」
「ありがとう」
答える私に、笑みを深めて一礼すると彼女は次に順番を譲った。
今日の私。父曰く、王太子の婚約者に相応しい衣装は、金糸でユリとツタの刺繍が施されたアイスグリーンのドレス。生地は殿下さまの瞳、刺繍は殿下さまの髪、柄は王家とアーヴィングの紋章からデザインされている。そして、王妃さまの指示通りだろう、髪には大きな緑石の新しい髪飾り。王家と公爵家の絆とやらは物理だけじゃなくて、重たい……。
一通りの挨拶を受けたようで、ようやく壇上から挨拶の順番を待つ人が消えた。
「ヴィクトリア、僕はこのまま少し会場を回るってくるけれど」
「私は少し休ませていただきます」
足が痛くて、というと殿下さまはプリンススマイルを残して壇上を降りていった。
スカートの中で、こっそりと靴を脱ぐ。いくら高級でもやっぱり細くて高い作りの靴をずっと履いていると気持ちつかれるのだ、元日本人だからね。白い衣装の殿下さまの周りに人だかりができているのを遠くに見ながら、私はぼんやりと考える。
婚約者になってから、つい最近まで。まさに、こんな自分を夢見ていた。「王子様と素敵なドレスで、キラキラのシャンデリアの下微笑んでいる」私。お勉強やお稽古を頑張ってこられたモチベーションって、国のため、家のためなんて難しいことではなく。結局はここにあった気がするのだ。そんな、長年の夢をようやく叶えたというのに、気持ちは重い。
これから婚約破棄を言い渡されるかもという緊張感だけではない。自分が描いていた未来のハリボテぶりを実感してしまったから。もちろん前世の記憶を取り戻したことが原因だけど。
城の大きなシャンデリアの下、侍従や女官に見守られながら手を取り合ってダンスの練習をした日を思い出す。最初はぎこちなくて、足を踏んでしまったりしたけど。殿下は笑って許してくれて、上手になってきたと励ましてもくれた。ワルツをマスターした時、教師がご褒美に城のボウルルームで踊らせてくれたっけ。大人になればティアラをつけて、ここでこうしてまた殿下と踊るのだと胸を高鳴らせていた。
お茶会が楽しみで、殿下が国を治める時にはこんな風にしようと話し合ったり、何代か前の王族の演説を真似る殿下に胸をときめかせたりもしてしまったのだ。今ではすっかり黒歴史だけど。
着飾って白い手袋の手を差し出されても、優しくエスコートされても。今の私によく似合う、新しい緑石の髪飾りを贈られても。もう、私の心は浮き立たない。全部が王妃さまや父にお膳立てされた義務感や礼儀でできているから。これからの自分のためにはそれでいい、わかっているけど。ずっとずっと殿下を大好きだった、ついこの前までの自分が零した涙の残滓が胸の奥でチリチリと痛むのだ。
見るともなく映していた会場の光景を、すっと鮮やかな赤がよぎった。ゆっくり場内を動いて、止まると壁近くに燃えるような真っ赤な花が咲く。あれ、男性でも壁の花っていうのかな? 覚えず、口もとに微笑みが浮かぶ。
「カモのロースと何か飲み物を」
近くに控えている給仕に声をかける。いつ婚約破棄劇場が始まるかわからない。ぼんやりしている暇はない。気合をいれろ、私。この後どう転んでもいいように、少しお腹を満たしておかなければ。腹が減っては戦はできぬ! 思い出は色あせて、夢に飾られた日々は二度と戻らない。私たちの未来はもう重ならない。重ねてはいけないんだ。