憎むべきは罪か人か
…な…んな…
…起きれる?杏奈…
早苗さんの声で目を覚ます。
「朝ごはんの時間だけど、食べれる?」
彼女を見て頷くと私は気怠く重い体を起こした。
時計に目を向けると8時を指しており、薬のおかげでよく寝れたようだ。
頭がぼーとする。
半開きの目で早苗さんを見ると彼女は目の下にクマを作っていた。
私とは対照的に寝れなかったのだろう。
無理もない、昨日の私はテレビを見ていたかと思えばいきなりうずくまって頭を抱えたりして、いかにも情緒不安定といった行動を取っていたからそんな姿を側で見ていた早苗さんはきっと気が気でなかったに違いない。
目の前にはもう朝食が用意されており、私は目を覚ます為にオレンジにかじり付いた。
食欲は無いがこれ以上早苗さんに心配を掛けたくないので私はお箸を手に持ち食べ物を口に運んだ。
味がせず、飲み込むために機械のように顎を動かす。
朝食後、早苗さんが外来の待合室から借りて来た本を読んで過ごした。
少しづつ頭がクリアになっていく。
時折記憶が蘇ると心臓が跳ね上がるような動きをしその度に、もう嫌だ思い出したくないのにと癇癪を起こしたくなるような唸りが体を駆け巡る。
その度に私は自分を落ち着かせるために岩波先生に言われた“自己防衛に成功した”という考えを思い出し、最悪な事態にならなくて良かった、これで良かったんだと自己暗示のように言い聞かせた。
彼らはきっといろんな大人に怒られてるはず、もう私に構ってはこない。
私は被害者であり悪いのは彼ら、これからは他人のふりして接していい。
と、同じ事を何度も何度も自分に言い聞かせる。
そして、ひなちゃん達は…
ひなちゃん達の事を考えると心がしゅんと萎んでしまい、それ以上は考えられなかった。
彼女達も傷付き、辛い思いをしている。
私と親しくならなければこんな思いしなくて済んだのに、って思っているんじゃないだろうか。
私を恨んでいるかな。
本から目線を上げて窓の外に向ける、梅雨が上がった夏の活気を感じるような青空をぼんやりと見ていると、ドアをノックする音が聞こえた。
はーいと、早苗さんが返事をすると看護師さんが顔を覗かせる。
「後藤さん、弁護士の方が受付に来ててお会いしたいって言っているのですが、どうしますか?」
「弁護士?」
早苗さんはピンと来ていないようだった。
私は何処かで覚悟していた、相手側が何かしらのアクションを起こす事を。
なので弁護士が訪れる事に驚きはない。
「はい、なんでも西森さんのご依頼で来たとか」
看護師さんが発した名前に私は全身に鳥肌が立ち、まるで髪の毛を後ろから引っ張られたかのように頭の皮膚が強張った。
私の変化に気づいた早苗さんは、お帰りいただいて下さい、と言おうとして私は彼女の袖を引っ張りそれを止める。
「杏奈、会うの?」
私は看護師さんを見て頷くと、じゃあお通ししますね、と言って扉を閉めた。
「杏奈、大丈夫なの?」
不安そうな顔をしている早苗さんに私は紙に書いた文字を見せる。
『避けられないと思う、先延ばしにするより早く終わらせたい』
そして、看護師さんが部屋を出てから数分後、再び誰かがドアをノックした。
早苗さんが返事をすると入って来たのはスーツを着た女性だった。
「森田法律事務所より参りました、新野と申します、面会の許可を頂きありがとうございます」
そう言うと彼女は深々と頭を下げた。
新野さんは長い前髪を横に流して耳に掛け、ふんわりとウェーブの掛かったボブヘアにしっかりとお化粧された綺麗な顔、黒のタイトなパンツスーツでビシッと決めており、いかにもキャリアウーマンといった印象だ。
私はベッドに座ったまま、早苗さんは私のすぐ横に立ち、そして新野さんはベッドの足元に立っている。
私と早苗さんは新野さんに顔を向けてお互いに挨拶を交わした。
「早速本題に入らさせて頂きたいのですが、よろしいですか?」
彼女の言葉に私が頷くとここに来た経由を淡々と話し始めた。
昨日、西森、稲川、倉田の3家族が彼女の事務所を訪れたところから始まった。
派手髪2人の名前は把握していなかったが、きっと彼らの事だろう。
彼らは警察の事情聴取にも素直に応じ、自分達の非を認めており反省しているという。
「今回の件をまとめさせて頂きました、間違いがないかご確認をお願いします」
彼女は鞄からレールファイルを取り出し、私と早苗さんに一部づつ渡した。
始めに書かれていたのはひなちゃん達の事だった。
彼女達に接近し、“今後の学校生活や研修先でトラブルを起こされたく無かったら言う事を聞け”などの言葉で脅して彼女達を利用した、と書いてあり私は心底彼らが嫌いだと思った。
私は左手を軽く握りしめて口に当て、人差し指の付け根辺りを噛みながら読み進めた。
無防備に目の前の文章に飛び込む訳にはいかない、今まで断片的に思い出していた嫌な記憶が最初から丁寧に書き綴られているからだ。
本当は見たくも無いし彼らと関わる事は避けたいが逃げていられない、先延ばしになるだけだ。
嫌な事がこの先に待ち構えているくらいなら自分から飛び込んで終わらせた方が私はマシだと考えている。
読み進めるうちに心臓が荒く鼓動を刻み始め、私は深呼吸するようにゆっくりと呼吸をした。
人差し指に神経を集中させて感情を噛み殺す。
ーー読み進めるうちに稲川と倉田は西森の行動に戸惑ったと書いてあり、それが気になった私はペンでその行をなぞり、新野さんに見せる。
彼女は言葉を発しない私に一瞬目を泳がせたが、詮索はせず私の意図を理解し答えた。
「はい、稲川と倉田は身体的危害を加えるつもりは無く、本当に杏奈さんを揶揄うだけのつもりでいたようなんです、なので西森が杏奈さんを押さえつけた時は少し引いてしまったと言っておりました」
早苗さんは眉間に皺を寄せて書類を睨みつけている。
私は新野さんの言葉を黙って聞いていると、彼女は続けた。
「でもその後、怖がる杏奈さんを面白がってスマホで撮影しています、事実だとしても言い訳にもなっていないと思っています」
狭い病室が沈黙で静まり、少ししてから再び新野さんが口を開いた。
「…調書に、間違いはないですか?」
私が頷くと鞄から別の書類を取り出し、彼女の口から刑事告訴に関する事と示談、賠償金という言葉が出て来た。
調書に食い入っていた早苗さんは顔を上げて、えっ、と声を出す。
「あの子達逮捕されてないの?」
早苗さんの言葉に新野さんはカバンに落としていた目線を上げて背筋を伸ばすと、はいと答えた。
彼女にとって早苗さんの反応はきっと想定内なのだろう。
「彼らには犯罪歴もなく、逃亡の可能性も低いので逮捕はされていません」
それに私のこの傷は自分で付けた物だ、だからこの展開は何処かで予想していた、が、早苗さんはショックを受けている様子だった。
「なにそれ、こんな酷い事しておいて牢屋に入ってないの?うちの娘がどれだけ怖い思いをしたか…」
早苗さんは声を振るわせ、言葉を詰まらせてしまった。
彼女を落ち着かせるかのように新野さんは説明を続ける。
「もちろん彼らは刑事告発されてもおかしくない事をしています、わいせつ未遂や保護責任者遺棄罪など、罪名は複数挙げられます、ご希望であれば告訴の手続きも可能です」
そう言うと新しいレールファイルを私達に渡した。
そこには刑事告訴した際の大まかな流れなどが書いてあり、読み進めると今度は示談に関しての事が記されている。
「刑事告訴となれば解決までに最低でも3ヶ月、いや、本件はそれ以上が見込まれます、もし早期に解決を望まれるのであれば示談の話に少し耳を傾けて頂きたいのですが」
早苗さんは嫌そうな顔をしたいだが、私が頷くと彼女は再び説明を始めた。
「今回、各3家より賠償金を支払いたいとの申し出がありまして、金額の詳細は書類の方に記載させて頂いています」
私は手元の書類のページをめくると、漢字と数字だらけの用紙が出て来た。
さっと目を通し、下の欄に目をやると賠償金の合計金額が1500万円以上になっていた。
「この金額は加害者の両親達の意思です、相場と比較するとかなり高額ですが三家とも裕福と言う事もあり、この様な金額の提示になりました」
よほど裁判には持ち込みたくないのだろう、目の前の数字だらけの紙を見ていると自分の子を守ろうと必死なのが伝わる。
「詳細についてご説明させて頂きますと、まず、この50万円は、」
「もういいです」
耐えかねた早苗さんが強めの口調で話を遮る。
「お金の話はもういいです、お金で解決しようとしてるじゃない、お金を出すのは親でしょ?結局本人達は何も痛くないじゃない」
早苗さんのその言葉には私も共感せざるおえなかった、まさに私もそう思っていた。
「まずは謝罪じゃないの?お金とあなたを盾に隠れてるみたいで腹が立つわ」
早苗さんはため息混じりにそう言うとファイルを閉じた。
「謝罪をお望みであれば本人達にその様にお伝えしますし、機会を設けさせて頂きます、ただ、あちら側としてもまずは誠意を見せなければ合わせる顔がないと言いますか…なので賠償金を先にご提示させて頂いていまして」
新野さんのその言葉に、裁判になった際に不利な発言をされては困るから会わせたくないだけなのでは?と思ってしまう自分がいたが声が出ないので2人の会話を黙って聞いていた。
「娘と2人で話したいので、今日はもうお引き取り下さい」
早苗さんがそう言うと新野さんは分かりました、と返事をした。
「最後に、お伝えしたい事があるのでもう少しだけお時間いただいてもいいですか?」
新野さんは私に問いかけるようにそう言うと私は頷いた。
「西森雅喜と一対一で話をした際に根本的な動機を探ったのですが、昔から付き合いのある女友達に“杏奈さんがバイト先の店長と付き合っている”と言う話を聞いて動揺してしまった、と言っていました」
私はそれを聞いて“女友達”は美貴先輩の事だろうと推測した。
後にそれが嘘だと分かるが西森雅喜は私に想いを寄せていたからとてもショックを受け、アプローチしても振り向いてくれない私に対して恨みに似た気持ちが芽生えてしまった、のだとか。
新野さんには申し訳ないがそんな事を聞かされてもだからどうした、としか思えない。
「お二人は、教育虐待という言葉をご存知でしょうか?」
あまり聞き慣れない言葉に首を振ると、彼女は西森雅喜の過去について話し始めた。
ーー西森雅喜は次々期病院院長の跡取りという事もあり、幼少期より徹底した教育を受けて来た。
たくさんの習い事や教材は彼の望んだものでは無く、両親のエゴだとずっと感じていたそうだ。
テストでは全科目95点以上取る事を課せられ、それが果たされないと正座させられ、ひたすら説教を聞かされる日々を過ごしていた。
そして酷い時はマンションのベランダに閉め出さられ、夕飯を食べさせて貰えない事もあった。
耳が痛くなるような寒い日でも脳が煮えそうな暑い日でも。
かと言って目標を達成しても褒めてもらえるわけでも無く、いつも素っ気ない態度なので幼い頃は自分は本当はこの家の子供では無いんじゃないかと良く思っていたそうだ。
ベランダから見える他の家庭の子供達は楽しそうに遊んでいたり親に甘えたりしている、なのに何故自分だけこんな思いをしなくてはいけないのか、とずっと不満を抱いていた。
「そんな両親からの愛情が不足した環境で育ち、道徳観念が未成熟な西森は小学生の時に同級生をいじめて問題を起こした事もあります、その際にもご両親が慰謝料を相手側に支払ったのだとか」
私はその話を聞いて“罪を憎んで人を憎まず”という孔子の言葉を思い出した。
その言葉には色んな解釈があるが、罪を犯した人の事情も汲んで冷静な判断を、という意味合いもあるらしい。
じゃあ私は何を憎めばいいのだろうか?自分自身だけで無く友達や大切な人も傷付いている。
このぐちゃぐちゃな感情は誰にぶつければいいの?
美貴先輩?ご両親?それもまた“人”か。
なら、そうなってしまった環境?じゃあしょうがないよね、ってなる訳ない。
西森さんよりももっと辛い環境で育った人だって大勢いる、その中には他人を傷つけない人だっていっぱいいる。
どう考えたって今の私は彼が憎いし、まだ許す事は出来ない。
私の心が未熟なのだろうがそれで構わない。
『本日はご足労いただきありがとうございました。
今は冷静な判断が出来そうにないので、お引き取り下さい。』
私は紙に書いた文字を新野さんに見せる。
「分かりました、本日は貴重なお時間をありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げて病室を出た。
新野さんを見届けると私と早苗さんは同時にはぁと溜め息を吐いた。
シンクロした溜め息が少し可笑しくて私達はふふっと笑った。
早苗さんは椅子に座り、なんか疲れちゃったわね、と言うと売店で買ったチョコを取り出し私に差し出した。
「杏奈はどうしたい?」
2人でチョコを食べているとそう聞かれ、私は紙に本音を書いていく。
『私は早く終わらせたい もう彼らに関わりたくない 罰するとかもうどうでもいい 私の人生から早く取り除きたい』
早苗さんは紙を見ながらそっか、と呟いて少し間を置いたあと口を開いた。
「ごめんね、私、杏奈の気持ち全然考えてなかったわ、あの子達にも杏奈と同じくらい辛い思いをさせてやるって考えてたけど、杏奈はそんな事望んでないのよね、これからは杏奈の意見を尊重するわ」
早苗さんの言葉で胸に安心感が広がり、彼女の理解に感謝した。
『ありがとう、悔しい気持ちを抱え込ませちゃってごめ』
「はい、そこまでよ」
書いている途中で早苗さんが紙に手を置き、制止した。
「まったく、あんたって子は」
呆れたようにそう言うと、ふっと笑った。
「少しづつ杏奈が戻ってきたわね」
ーーーーー
新野さんに連絡しなきゃね、なんて話していたが翌日、連絡せずにいたのにも関わらず新野さんが再び病院を訪れる。
看護師さんが病室まで入室の許可を聞きに来た際に、予想外の早い再訪問に早苗さんは思わず盗聴器でも仕込まれたのかしら、と冗談を言うほどだった。
「連日の訪問で失礼します、先方より早く提案して欲しいの要望がございましたのでお伺いしました」
新野さんは今日もキャリアウーマンのオーラを放ちながら現れた。
昨日あの後、西森雅喜の祖父、現大学病院院長の西森繁が彼女の事務所を訪れたそうだ。
今回の件にかなり憤りを感じていて孫の雅喜には病院を継がせない、と家族の前で宣言したという。
「賠償金のみですと彼らには痛手がないように感じますが、こう言った洗礼も受けています」
そう言うと新野さんはスマホを取り出し、私と早苗さんに画面を見せた。
それはSNSの検索の結果を表示した物で、そこには彼ら3人が写っており、目に黒い線が引かれた写真などが複数写っている。
スクロールしていくと顔に加工がされていない写真まで出て来た。
写真には“エリート医大生の闇”や、“医大生がわいせつ未遂、エリートを夢中にさせた美女の正体とは!?”などと書かれている。
「彼らの行いは大学内から広がり、今ではSNSでちょっとした話題になっていて日常生活においても肩身の狭い思いをしているようです」
親や本人が必死で削除要請しているが、次々と新しい記事が出回るのでイタチごっこの状態なのだとか。
幸い、私はSNSをしていないし友達の写真にも映らないようにしている、なので私の顔写真がネット上に晒される事はまずないはず。
SNSを避けているのはあまり興味がないからと言うのもあるが、1番は父親の存在があるからだ。
私と母親は顔がよく似ていており、万が一父親の目に留まり、身分調査されてしまったら母の犠牲が無駄になってしまう。
ゴシップ好きの餌食になって、それが原因で父親に見つかってしまったらと思うと…。
「今はまだ杏奈さんの情報は出回っていませんが、それも時間の問題です、退院して復学されたらカメラを向けられる可能性もあり得ます」
そう言いながら新野さんは鞄の中から冊子を2冊取り出した。
「そこで西森繁氏よりご提案なのですが、騒ぎが落ち着くまで、夏の間だけでも杏奈さんを遠方の施設で過ごして頂くのはどうかという案がありまして」
私と早苗さんがカタログを受け取ると、洋館を思わせる豪華な外観の施設の写真と共に“ケアホーム・フォレストハウス”と記載がされている。
表紙をめくると今度はドローンか何かで撮ったような上からのアングルの見開き写真になっていた。
施設は“コ”の字型のようになっており、その内側には中庭と思われる芝生の植えられた空間があり、建物周辺も広大な土地が広がっていて山を大きく切り拓いた事を伺わせた。
ページの右下にフロアガイドには施設の詳細が載っており、建物は3三階建てで離れて建設された女性棟と男性棟を繋ぐように真ん中の建物は上から事務所、食堂、憩いの場になっている。
利用者棟の1階は厨房やランドリールーム、処置室になっていて利用者は2、3階に部屋があり宿泊する作りになっていた。
女性棟、男性棟各12部屋あり、総員24名まで入所可能と記載されている。
「こちらの施設はメンタルヘルスケアを必要とする方達のグループホームになっておりまして、創立してからまだ5年弱という事もあり、あまり知られていないのです」
長野県の山奥にあるこの施設はウェブサイトも無く、ネットで検索しても出て来ないのだとか。
一部の方にしか存在を知られていません、という新野さんの言葉に少し疑問を抱いたが、カタログの最終ページに記載された利用料金を見て何となく納得した。
登録料や利用料金がびっくりするほど高額なのだ。
それを見て“一部の方”と言うのはお金持ちの方なのだと理解した。
「まるで高級ホテルみたいね」
カタログをパラパラとめくりながら早苗さんが言った。
確かに、外観は異国感が漂い、内装のデザインもテレビで見るような高級リゾート地のホテルのようだ。
「この施設の利用料金や必要経費は西森繁氏が全額負担すると仰っております、それと、また金銭のお話になってしまって恐縮なのですが、」
そう言うとチラリと早苗さんを見て一枚の用紙を彼女に手渡した。
「西森繁氏が、お母様の事業に大変関心されておりまして、是非とも寄付したいと申しております」
書類には500万円の記載がされており、早苗さんは顔をしかめ、この家系はお金が湧いて出てくるのかしら…と呟いた。
返事は急ぎでは無いのでまた後日教えてほしいと言って帰ろうとする新野さんに私は手を伸ばして制止し、急いで紙を差し出した。
『承諾します、賠償金も施設も寄付金も、全て受け入れます』
新野さんはそれを読んで少し驚いた顔をした、きっと予想よりも早い決断だったからだろう。
「杏奈、もう決めちゃっていいの?」
早苗さんの問い掛けに私は『はやくおわらせたい』と先ほどの紙の下に書いて2人に見せた。
早く終わらせたいのも本音だが、寄付金の話が私の背中の最後の一押しをしたと言ってもいい。
賠償金を早苗さんに渡すと言っても彼女は絶対に受け取らないだろう、寄付金なら素直に受け取ってくれるかもしれない、これが西森家からの償いとして早苗さんには受け取って欲しい。
それに施設に入れば島に帰らなくてもいいからきっと復学しやすくなると考えている。
これらを踏まえると、私には断る理由の方が見つからないのだ。
「寛大なご決断をありがとうございます、早速相手側に伝えさせていただきます」
新野さんが部屋を出ると、早苗さんは落ち着きをなくしソワソワし出した。
「まだサインとか何もしてないからいつでも考えを変えて大丈夫だからね、気が変わったら言ってちょうだいね」
彼女はどうやら私が突発的に決断してしまったと思っているようだ。
私は『メリットしかない、だってこんないい所にタダで泊まれるんだよ?』と紙に書き“フォレストハウス”のカタログに添えた。
それを見て、心配だから目の行き届くいて欲しいのよと早苗さんは寂しそうに言った。
「って子離れ出来てないわね、分かったわ、杏奈の意見を尊重するって言ったばかりだものね」
その言葉を聞いて私はホッとした。
弁護士さんと話をすると疲れちゃうわね、そう言うとお菓子の入った袋に手を入れて漁る早苗さん。
2人でお菓子を食べていると、
「あのね杏奈、さっき売店に行こうとしたら看護師さんに呼び止められてね、」
声質で何やら大切な話のように感じたのでカタログから目を離して彼女を見た。
早苗さんに会いたいと言って女子大生3人が病院の総合受付に来ていたそうだ。
「個人情報だから何もお答え出来ないって言っても諦めずにずっと粘ってたんですって」
それを聞いて、もしかしたら、と心当たりがあった。
「私が受付に行って杏奈の母です、って言ったら3人とも声を震わせながら自己紹介してくれてね、その名前が新野さんの資料で読んだ名前の子達だったのよ」
やっぱり、ひなちゃんとキヨさんとふうちゃんだ。
3人は何から話したらいいのか分からない様子で、目に涙をいっぱい溜めてひたすら早苗さんに謝ったそうだ。
「自分達の不甲斐なさで杏奈に辛い思いをさせてしまった、本当にごめんなさいって、手紙を書くとか色々考えたけど直接謝りたかったんだって」
なんて答えたの?と問うように早苗さんを見る。
私が言葉を発さずとも彼女は理解し、答えた。
「あなた達18、19なんてまだまだ子供なんだから間違った判断もしてしまうわ、もっと大人を頼りなさい、今回のような事があったら自分達だけで解決しようとせず周りにいる信頼出来る大人に相談しなさいってね」
その言葉を聞いて、彼女達の普段の姿が頭に浮かんだ。
彼女達は本来、人の気持ちを考えて行動するし弱者にマウントを取る事をせず、強者に媚びる事もしない、そんな真っ直ぐな人間だ。
“間違った判断”と言う早苗さんの言葉を聞いて本来の自分達を理解してもらえた、と思えたのではないだろうか。
彼女達は私にも謝りたいと言っていたそうだが“もし自分が杏奈の立場だったら病室に来て謝られるのは嫌だと思うから、寮に帰って来たらちゃんと謝りたい”と話していたそうだ。
確かに、私もそう思う。
此処はプライベートな空間ではなく、いつ、誰が病室を訪れてもおかしくないから感情的になってしまいそうな場面は避けたいと思っている。
「杏奈はあの子達の事どう思ってる?」
そう聞かれて私は正直な気持ちを書いた。
『大切な友達』