新生活
海という漢字には“母”が使われている。
海は生命の源であり、深く広大なその懐には大きな哺乳類から小さなプランクトンまで沢山の生命が存在しているので母という漢字はぴったりだと思う。
私の故郷の舞島では何処にいても海が見える島で、海を見ない日はないくらい身近なものだ。
足取りが重くなってしまうような日の通学も、坂道から海を眺めると母が見守ってくれている様な気がして頑張ろう、と気持ちを切り替えられたりもした。
海のように深く、広大な愛情で包んでくれた母。
母の写真を見るとふわっと母の香りが一瞬脳裏に蘇る事がある。
それはとても懐かしくて寂しい気持ちにさせられる。
私が唯一持っている母の写真は、海辺で幼い私を抱っこして微笑んでいる写真だ。
いつもポーチに入れて持ち歩いている。
そして私にはもう一枚大切にしている写真がある。
それは大学の合格通知を受け取った日にみんなにお祝いしてもらった時の写真だ。
テーブルにご馳走を並べ、私を中心にして早苗さんや香さんと理恵さん、そしてショートステイを利用している子供達が写っている。
楽しかった思い出が詰まっており、この写真を見ると自然と微笑んでしまう。
私はその2枚の写真をポーチの内ポケットに入れてリュックに仕舞った。
胸まで伸びた長い髪の毛を1つに束ねて、リュックを背負い新幹線を降りる準備を始める、もう直ぐ目的地に着くとのアナウンスがあったからだ。
私は住み慣れた土地を離れ、今日から都会で医大生としての暮らしが始まる。
都会に来るのも暮らすのも初めてで、まるで未知の世界に飛び込んで行くような気分だ。
何があるのか、どんな事が起きるか、まったく想像が出来ない。
ボストンバッグを乗せたトランクを引いて通路を歩いていると、ふと昔聞いた雑学が頭を過ぎった。
地球の3分の2を占める海は全体の15%程しか解明されておらず、深海に至っては海面の95%を占めているが5%しか解明されていない。
そして、宇宙も全体の5%しか解明されていないらしい、という事。
この事実を知った時は衝撃的だった。
未知の部分が95%もあるなんて、何があるのか想像するとワクワクした。
そして私達人間が宇宙をそう感じるように魚もきっと海は無限大だと感じているはずだ。
魚が自分の移動範囲や回遊ルートを逸れて自由に動き回れるとしたらきっと泳いでも泳いでも突き当たる所が無く、海には果てがないと思うだろう。
その行為は危険を伴うがきっと想像を超えた素晴らしい物を沢山見る事が出来るはず、色とりどりの珊瑚や熱帯魚に目を奪われたり、クラゲやホタルイカなどの発光生物に驚いたり深海魚などの不思議な形の生き物に出会ったりしてきっと素敵な大冒険になるに違いない。
私は、魚と自分自身を反映させてそんな事をぼんやりと考えながら新幹線のドアの前に立った。
ドアの向こう側にはきっと別の世界が広がっている、そう思うと気持ちがソワソワした。
車体が止まり、ドアが横にスライドして開く。
ドアの向こう側には沢山の人が行き交っている。
私は一歩踏み出した。
ーーーーー
大学のパンフレットには駅から徒歩15分と記載されていたが、私は駅の出口を見つけるまでに30分掛かってしまった。
この駅は私の知っている駅ではない。
駅というより商業施設になっていて迷ってしまったのだ。
駅員さんに声を掛けたくても見つけられず大きなトランクを引きずって立ち止まると邪魔になってしまう為、端に寄りたくても壁が何処にあるのかすら分からなかった。
そして駅員さんを見つけた時の安心感、きっと迷子の子供が親を見つけた時もこんな感じなのだろう。
駅の出入口の階段を降りて外に出ると賑やかな街並みが目に飛び込んできた。
高く聳え立つビルには派手で目立つ広告が並び、車の行き交う音や人々の発する音で雑然とした活気に満ちている。
テレビで見た事のある都会の景色が目の前に広がっていて少し不思議な気持ちになった。
そして排気ガスとドブのような臭いが鼻に届き、綺麗に整備された街並みとは不釣り合いに感じた。
私はリュックから大学のパンフレットを取り出し大学までの地図を確認する。
駅前の大通りから少し逸れた坂道を登ると目的地があり、緩やかな坂道だが大荷物を持っていた私には過酷な道のりだ。
坂道を登って数分後、建物が見えてきて息を荒らしながら俯いて歩いていた私は顔を上げた。
敷地内奥の10階建程の大きな建物がまず目に入り近くを見ると駐車場入り口の正面ゲート横の植え込みに石製の看板があり“西南医科大学付属病院”と彫ってある。
来院した人が雨で濡れない様に屋根付きのスロープが病院の周りを取り囲い、敷地内の車道と歩道もガードレールで区切られていた。
奥の方にも何棟か建造物が隣接しているのが見え、病院の立派な佇まいからしてしっかりとした医療が受けられる施設という印象を受けた。
車から降りて病院に向かう人や、入院中の家族に会いに来たであろう大きな荷物を持った人、車椅子で介護タクシーに乗る人とそれを補助する看護師さんらしき女性。
出入り口付近だけで沢山の人の動きが見え、私もその内この病院で働く側の人間として歯車の一つになるのだと思うと、坂道を登った時の胸の鼓動とは違う別の感情が込み上げ胸が高鳴った。
病院の前を通り過ぎ、更に坂道を登ると“西南医科大学”の正門に辿り着く。
私が選んだこの西南医科大学は病院と併設してあるだけで無く、寮も敷地内にあって運良く利用出来る事になったのだ。
奨学金制度もあってその審査も通過し、金銭的に余裕があるわけではないが取り敢えずは安心して大学に通える。
まずは様々な手続きと部屋の鍵を貰うため、校舎の中にある事務室に向かう事にした。
春休み中だが、構内には生徒と思われる若者達が居てベンチに座ってスマホを見たりグループで固まって談笑したりしている。
私は自分と同世代の女の子達の事を目を丸くさせて見てしまった、みんな華やかでキラキラしているのだ。
お化粧をして髪の毛もちゃんとセットしてあり服装も流行りの物で、まるでテレビや雑誌からそのまま飛び出して来たかのようだった。
それに比べて私はお古の服ばかり。
インナーで着ていた白の無地Tシャツは中学生の時から着ているもので、首元がよれているだけで無くサイズが小さくなってきて余裕なく体に張り付いている。
その上に羽織ったネルシャツは島民のお下りを貰ったもので、オーバーサイズなので袖を何重にも折って着ており、デニムの短パンは長時間座っていたせいで股関節の辺りがシワシワだし、靴は履き古したスニーカーだし私の服装はとてもオシャレとは言えなかった。
建物のガラスに映った自分の姿を見るとTシャツが上に寄ってお腹が出ていたのでそれを下に引っ張りお腹を隠した。
このTシャツはそろそろ寿命かな、などと考えながら顔を上げると建物の内側にいた人達と目が合ってしまった。
私は気まずくなり、そそくさとその場から離れて歩き始める。
「ねぇ、そこの子ちょっと待って」
校内に向かって歩いていると背後から声をかけられ、振り返ると4人の男の人が立っていてさっきの建物で外にいる私と窓越しに目が合った人達だと分かった。
「君、新入生だよね?」
私はそうです、と答えると新入生を揶揄いに来たのかサークルの勧誘目的なのか、彼等は引っ切り無しに質問を投げかけて来る。
何処から来たのか、名前は、学科は、など次々と言葉を浴びせられ彼らの話す速度についていけず、答える隙をなくした私はしどろもどろになってしまう。
すると大きな声で容姿の事を褒められ、周りの人の視線を感じた私は恥ずかしさで口篭ってしまった。
「おい、新入生が困ってるだろ止めろよ」
はしゃぎ気味の4人とは違うトーンの声が聞こえ、声のした方を見るとそこには1人の男性が立っていた。
「西森くん、来てたんだね」
4人組はさっきまでのテンションが嘘みたいに落ち着き少し気まずそうな顔をしている。
「…それじゃあね、新入生頑張ってねー」
そう言うと4人組は手を振って何処かへ行ってしまった。
「大丈夫だった?困ってる様に見えたけど」
声を掛けてくれたのは軽くパーマの掛かった黒髪から覗く少し垂れ気味の目が印象的な男性で、片耳に着けた小さなフープのピアスが陽に反射してキラリ光っていた。
地元では見たことのないスマートで都会的な雰囲気に、私は少し緊張してしまう。
「ありがとうございました」
私がお礼を言うと彼は私の荷物を見て察したのか、事務室まで案内すると言ってトランクのハンドルに手を掛けた。
悪いので自分で引いていくと言ったが、彼はニコリと笑ってそのまま歩き出した。
彼の名前は西森雅喜。
私の2年先を行く先輩で医学部の3回生で寮ではなく近くのアパートを借りて一人暮らしをしているそうだ。
事務室に着くまでの間、西森さんとの会話で知った彼の情報。
2、3分程の道のりだったのでその程度しか互いの事を話せなかったが、会話が続かないのも困るのでちょうど良かったかもしれない。
事務室に着きドアをノックして扉を開けると職員が数人いて、入口付近で書類を持っていた高齢の男性職員と目が合った。
「すみません、入寮の手続きをお願いしたいのですが」
声を掛けると男性職員は、はいはいと言うと私の後ろに視線を移し、口を開いた。
「西森くん来てたのか。新入生の案内かい?ご苦労さん」
「いえ、では自分はこれで」
そう言うと西森さんは事務室を出て行こうとし、私は慌ててお礼を言うと彼は軽く手を振って部屋を出て行った。
その後、私は寮の手続きと簡単な説明を受け、部屋の鍵を受け取った。
対応してくれた男性職員に頭を下げて退室すると、ここまで案内してくれた西森さんが廊下で窓にもたれ掛けながら腕組みをしてスマホを見ており、私に気付くと顔を上げた。
「暇だから寮まで案内するよ、杏奈ちゃん」
西森がそう言うと私は断る理由がなかったので、お願いしますと言って再び私達は並んで歩き出した。
「出身は何処なの?」
西森さんからの質問に私は鹿児島にある舞島という小さな島だと答えると、離島から来た子と話すのは初めてだ、と何処か嬉しそうだった。
どんな島かと聞かれ、私は海が綺麗だから初めて島に来た子はみんな海の生き物探しに夢中になる事、島民はみんな家族の様に仲が良くてお祝い事があると駆け付けてくれる事、夜になると星が凄く綺麗に見える事など、気付くと島の事を夢中で話していた。
「あ、すみません、一方的に話してしまって」
「いいよ、俺はこの街が地元だからそういうの羨ましいよ」
そう言うと西森さんは307号室の前で立ち止る。
さっき貰った鍵についているキーホルダーに書かれた番号と照らし合わせてみる、どうやらここが私の部屋のようだ。
「ねぇ、連絡先教えてよ、また何かあったら助けてあげるよ」
西森さんがポケットからスマホを取り出してそう言うと、少し困ってしまった。
でも嘘をついてもどうにかなる事でも無いので、正直に言うしかない。
「すみません、スマホ持ってないんです」
ノートパソコンを買って貰ったからスマホの必需性を感じなくなって解約したのだ。
格安SIMにして月に1000円前後の出費だとしても私にとっては痛手だし、今まで使っていたスマホは3年間使ったのでフリーズしやすくなったり、バッテリーの劣化などで使い物にならない為リサイクルショップで現金に変えてきた。
スマホ端末も安くはないから新しい物を買う考えは私には無くパソコンで大抵の事は出来ると思っている、カメラも付いてるし。
「そんな断られ方されたの初めてだよ」
西森さんは私が嘘をついていると思ったのだろう。
「ノートパソコンがあるので不要になったんです、LINEやGoogleのアカウントもあるのでそれで連絡は出来ます、タイムリーなお返事は出来ないかもしれないけど…」
私がそう説明すると彼は目を丸くして驚いた顔をしていた。
「はは、マジか、ますます興味をそそられる…」
彼は下を向きながらポツリとそう言った。
私と西森さんが廊下で話をしているとガチャっと部屋のドアが開いた。
眼鏡をかけたショートカットの小柄な女の子が顔を覗かせ、私と西森さんの顔を交互に見て「え?」と繰り返している。
「あ、ルームメイトが先に入ってたみたいだね、女子寮に男が居たらビックリだよね、じゃあもう行くよ」
そう言うと西森さんは手を振って帰って行き、私は深々と頭を下げて彼にお礼を言った。
私は部屋の方に体を向き直し、ルームメイトと思われる女の子に挨拶をする。
「後藤杏奈です、今日からよろしくお願いします」
「あ、赤沢陽向です」
私達はお互い向かい合って頭を下げ挨拶を交わし、赤沢さんに案内してもらう形で一緒に部屋の中に入った。
部屋に入るとまず大きな窓が目に入り、そして2段ベッドが壁側に置いてある。
ベッドを挟む様にして勉強机が2つ壁側を向く形で備え付けられていて、反対側の壁にはクローゼットが設備してあり、部屋の真ん中には小さな折りたたみテーブルが置いてあった。
「あの、ごめんなさい、私高い所苦手だからベッドは下の方を使わせてもらってて、目が悪いから机も窓際を…」
赤沢さんは申し訳なさそうに言った。
「ううん、いいよ、何の問題もないから大丈夫だよ」
私がそう言うと、えへへと照れくさそうに笑った。
その仕草が子供のように可愛らしく好印象で、ルームメイトが人の良さそうな子で私は安心した。
そして彼女は私をまじまじと見て
「なんか不思議、AI生成の美女が目の前で動いてるみたい」
そんな事を言われたのは初めてだったので私は思わず吹き出してしまう。
「すぐ見飽きるよ」
そう言うと彼女は飽きるほど見たいと言ったのでまた笑えてしまい、先程まで感じていた緊張がみるみる解けていった。
私は荷解きをしながら彼女と色んなことを話した。
出身地や、この大学を選んだ理由、医者を目指すきっかけなど。
赤沢さんの場合は祖父が小児科医をしているらしく、その影響で小児科医を目指しているそうだ。
「そう言えば、さっき何で西森さんと一緒だったの?知り合い?」
彼女にそう聞かれて、私も疑問に思っている事を聞いてみた。
「ううん、たまたまだよ。暇だから案内するって言ってくれて、西森さんって有名人なの?」
私がそう言うと彼女は驚いた顔で知らないの!?と言った。
彼女によると西森さんはこの西南大学附属病院の病院長のお孫さんで、次々期後継の存在だそうだ。
「優秀で爽やかなイケメンって感じなんだけど、何処か高圧感があって近寄り難いというか…腫れ物じゃないけど、扱いにくい感じがして…」
と言葉を選ぶように、でも本音で話したいと言う彼女の本心が垣間見れた。
私はそれを聞いて腑に落ちた。
気まずそうにしていた男子学生や、何百人もの生徒の相手をして来た事務員でさえも彼の名前を知っていて気を使う素振りを見せていた事、そして顎を上げて目線を下に落とすように人と話をする癖が、他人より優れているという彼の自信の表れなのだろう。
「敵に回したくないタイプなんだね」
私がそう言うと赤沢さんは興奮気味にそう、それなの、と同調する。
「ねぇ、連絡先交換しよ」
そう言われ、スマホを持っていないと言うと彼女も西森さん同様、目を丸くして驚いた顔をしていた。
まるでフレーメン反応をした猫のようだ。
私はあと何回、この顔を見ることになるのだろうか。